2013年06月05日

真田信之の戦い

 真田信幸は関ヶ原の戦いの後、上田領六万五千石、沼田領三万石を領有する大名となった。父昌幸の所領をそのまま受け継いだのである。上田城が取り壊されていたので、しばらくは沼田城に在城していた。この頃信之と改名している。徳川に敵対した父昌幸を慮ってのことである。
 「真田三代記」を嚆矢として現代に至るまで真田を描いた歴史書、物語の類いは数多いが、この信之について書かれているものは少ない。先年私は「藩物語 松代藩」という本を書くにあたって、藩祖である信之についてはその人となりを詳細に記した。そのことで松代の方からは大いに感謝された。
 真田というと幸村、上田というイメージが強くあり、信之を藩祖とする松代の事はあまり語られてこなかったのである。そのへんのところを小林計一郎氏は次のように記している。「信州上田城は真田の城として知られる。ところが、事実は真田氏がこの城に居たのは元和8年(1622)までで、のち仙石・松平(藤井)と城主がかわった。ところが上田へ来る者は真田の城というのみで、松平などと口にする者は一人もいない。」(「真田幸村」)さらには信之についても「九十三歳の長命を保ち、真田家を松代十万石の大名として存続させた長兄信之なども、幸村の盛名の前にはまるでかすんでしまっている。」というのである。信之を藩祖とした松代藩はそれから十代250年にわたって明治維新まで存続した。
 関ヶ原の戦い前夜、犬伏の陣で袂を分った父子、兄弟であったが、その仲は決して悪くはなかったようである。昌幸・幸村が死罪となるところを身を以て命乞いしたことはよく知られているが、九度山での生活を支えたのも信之であった。また、昌幸の死後、付き従っていた家臣を上田に呼び寄せ藩士として召し抱えている。
 大坂夏の陣で幸村が獅子奮迅の働きをし戦死した事は、徳川に叛旗を翻したものの身内として信之の立場を悪くしたと思われるが、それでも信之は弟幸村について「佐衛門佐はものごと柔和忍辱物静かであり、言葉が少く、怒り腹立つことがなかった。」(「佐衛門佐君伝」)と語ったのだという。
 小林計一郎氏は先に引用した「真田幸村」の中で、真田幸村は大坂夏の陣直後から「日本一の侍」という最大限の称賛を受けている事から「上田真田家としても、迷惑な一面はあっても、武名高い勇将を一族に持つことを誇りに思う気持ちが強かったに違いない。」とされているが、このように評価されるのは信之の死後、大坂の陣が人々の間で伝説となって語られる頃のことであろうと思う。例えば文政6年(1823)に藩主となった幸貫は、奥州白河藩主松平定信の息子で、真田家に養子に入ったのだが、次のように語っている。「(松代藩は)世の中には指折りの、武門には一、二と劣り申すまじく家柄」(文政七年「御触書」)これは明らかに昌幸・信之・幸村の武功を念頭においてのことであろうが、こういう風潮が公の場で語られるのは信之の存命中は憚られたのではないか。信之は対徳川家に対してはずいぶんと肩身の狭い思いをしたに違いない。その傍証として、松代への移封、そして次々と真田家に課せられたお手伝い普請のことを挙げておこうと思う。信之の晩年はこれら幕府からの圧力との戦いであった。


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Posted by 南宜堂 at 22:27│Comments(0)真田十勇士

 
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