2013年05月17日

幸村の虚像と実像

 長野県の郷土史界の泰斗故小林計一郎先生はその著書「真田幸村」(昭和54年・新人物往来社)の中で、大坂の陣における幸村について「大坂城における幸村は傭兵隊長にすぎなかった。」と断じている。傭兵つまり金で雇われた兵隊の隊長であったというのだ。こういう言い方をされると世の幸村ファンは穏やかではないだろうと思う。
 私は生前の小林先生について、本を出版させていただいたり講演をお願いしたことがあったりして、その人となりは多少は知っている。いたって温厚な激することなど考えられないような方であった。一方で、それまで固いイメージてあった郷土史を親しみやすいものにされた方でもあった。長野郷土史研究会を主宰され、ひんぱんに史跡めぐりや古文書講座をやられていた。その小林先生がこういう挑戦的な言い切りをされたということは、世間にはびこる通説を改めたいという思いがあったことだろう。
 傭兵隊長云々の前後も見てみよう。「幸村はなんのために死んだのだろうか。ふつう、故太閤の恩に報ずるためとか、秀頼への忠義のためだとかいわれる。しかし、これは江戸時代的な考えで、幸村は豊臣家とさほど深い関係はなかった。」「
最後の戦いに子大助を秀頼のもとに送ったのは、人質の意味であった。豊臣氏にとっては、幸村は人質を取らねば信用できぬ程度の新参にすぎなかったのである。」大助が人質だったとは、せっかくの親子の美談が壊されると感ずる人もいるのではないか。
 かっこいい幸村の原型は何度も述べているように「真田三代記」である。それが講談となり、立川文庫となり、戦後にはあまたの映画・小説・テレビドラマとなり、ついにはゲームとなってその英雄像は膨らんできた。そんな英雄幸村は虚像であり、その実像を追うというのは、膨らんだ風船に針を刺すような行為にも見える。幸村の虚像と実像


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Posted by 南宜堂 at 22:49│Comments(0)真田十勇士

 
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