2013年06月08日
信之最後の戦い
真田信之は長命であった。万治元年に引退先の柴村の屋敷で生涯を終えている。九十三歳であった。だが、その人生は決して平穏であったわけではない。
真田氏は信之の祖父幸隆の代から武田信玄に臣従したが、信之が元服を迎える頃には武田氏は滅亡し、父昌幸は自領を守るために戦いに明け暮れる毎日であった。
関ヶ原の戦いにおいては、父昌幸、弟信繁(幸村)とは袂を分かち、徳川方についた。その褒賞として沼田城は安堵され、父の領地であった上田城も信之のものとなった。しかし、その平和の時代も束の間で、松代への移封となったのである。
真田家は上田時代に比べ、四万石の加増となり、上州沼田の三万石とあわせ、十三万石の大名となった。信之は、このうち、沼田三万石を長男の信吉に分知し、次男信政に信濃の国の内一万石を、三男信重に七千石を分知した。
しかし、沼田の信吉が寛永十六年(一六三九)に没し、その跡を継いだ長男熊之助も夭逝してしまう。信之は信政に沼田領のうち二万五千石を与え、残りの五千石は熊之助の弟でまだ幼い信利に継がせた。信政の信濃の一万石は信重に与えた。その後、信重もまた若くして没し、後継者がいなかったため、一万七千石は信之に戻された。
明暦三年(一六五七)、信之はようやく幕府より隠居を許された。真田十三万石のうち、松代十万石は信政が、沼田三万石は信利がついだ。これまで信之は何度も隠居を願い出ていながら、なかなかその許可がおりなかった。将軍家綱が幼少のためとされているが、実際は幕府が真田潰しを画策していたためではないかとも言われている。
ようやく隠居を許されて、信之は城下にほど近い柴村に隠居所をつくり移り住んだ。供する者、侍五〇人の他足軽・仲間など三〇〇余人。信之はここで剃髪して名を一当斎とした。
しかし、明暦四年二月に信政が急逝する。残されたのはまだ二歳という幼少の五男幸道であった。信政は生前自分の息子である幸道に家督を継がせたいと願い、そのような遺言状を残していた。幸道の藩主相続は一当斎信之の添え状とともに老中酒井忠清に願い出られた。しかし、老中からは、幸道がまだ幼少であることから、沼田藩主信利ではどうかとの意向が伝えられてきた。信利の父信吉の正室は酒井家から輿入れしていた。忠清の姉である。松代藩主に信利を据えた方が幕府にとってはなにかと都合がよかったのだろう。
跡目相続を巡る幸道派、信利派の争いは、松代藩を二分しかねない騒ぎとなってきた。この騒動の中、前藩主である信之はあくまでも幸道の擁立に固執した。自分がここで幸道をあきらめ沼田から信利を招けば、幕府の覚えもよく、真田家の安泰のためにも有利だとの判断は働いたのだと思うが、飽くまでも自分の最初の意志に忠実であろうとしたのだ。酒井ごときに松代を意のままにされてたまるか、信之の最後の意地だったのかもしれない。
しかし、事態は急展開する。酒井忠清は信利の擁立をあきらめ、幸道が三代藩主に就くことを認めたのだ。松代藩の騒動は隠密を通して江戸に報告されていた。このまま混乱が続くと松代がとんでもないことになると判断したようだ。そして、その累は自分の進退にも及ぶのではないかと怖じ気づいたのかもしれない。
信之は幸道が藩主となったのを見とどけたのち、万治元年(一六五八)十月十七日、隠居所の柴村の屋敷で生涯を閉じた。九三歳という高齢であった。遺骨は真田家の菩提寺長国寺に葬られた。
沼田藩はその後、天和元年(一六八一)に改易となり、三万石は取りつぶしとなる。両国橋架け替え工事の遅延の責任を取らされたものであった。それはまた別の話である。
真田氏は信之の祖父幸隆の代から武田信玄に臣従したが、信之が元服を迎える頃には武田氏は滅亡し、父昌幸は自領を守るために戦いに明け暮れる毎日であった。
関ヶ原の戦いにおいては、父昌幸、弟信繁(幸村)とは袂を分かち、徳川方についた。その褒賞として沼田城は安堵され、父の領地であった上田城も信之のものとなった。しかし、その平和の時代も束の間で、松代への移封となったのである。
真田家は上田時代に比べ、四万石の加増となり、上州沼田の三万石とあわせ、十三万石の大名となった。信之は、このうち、沼田三万石を長男の信吉に分知し、次男信政に信濃の国の内一万石を、三男信重に七千石を分知した。
しかし、沼田の信吉が寛永十六年(一六三九)に没し、その跡を継いだ長男熊之助も夭逝してしまう。信之は信政に沼田領のうち二万五千石を与え、残りの五千石は熊之助の弟でまだ幼い信利に継がせた。信政の信濃の一万石は信重に与えた。その後、信重もまた若くして没し、後継者がいなかったため、一万七千石は信之に戻された。
明暦三年(一六五七)、信之はようやく幕府より隠居を許された。真田十三万石のうち、松代十万石は信政が、沼田三万石は信利がついだ。これまで信之は何度も隠居を願い出ていながら、なかなかその許可がおりなかった。将軍家綱が幼少のためとされているが、実際は幕府が真田潰しを画策していたためではないかとも言われている。
ようやく隠居を許されて、信之は城下にほど近い柴村に隠居所をつくり移り住んだ。供する者、侍五〇人の他足軽・仲間など三〇〇余人。信之はここで剃髪して名を一当斎とした。
しかし、明暦四年二月に信政が急逝する。残されたのはまだ二歳という幼少の五男幸道であった。信政は生前自分の息子である幸道に家督を継がせたいと願い、そのような遺言状を残していた。幸道の藩主相続は一当斎信之の添え状とともに老中酒井忠清に願い出られた。しかし、老中からは、幸道がまだ幼少であることから、沼田藩主信利ではどうかとの意向が伝えられてきた。信利の父信吉の正室は酒井家から輿入れしていた。忠清の姉である。松代藩主に信利を据えた方が幕府にとってはなにかと都合がよかったのだろう。
跡目相続を巡る幸道派、信利派の争いは、松代藩を二分しかねない騒ぎとなってきた。この騒動の中、前藩主である信之はあくまでも幸道の擁立に固執した。自分がここで幸道をあきらめ沼田から信利を招けば、幕府の覚えもよく、真田家の安泰のためにも有利だとの判断は働いたのだと思うが、飽くまでも自分の最初の意志に忠実であろうとしたのだ。酒井ごときに松代を意のままにされてたまるか、信之の最後の意地だったのかもしれない。
しかし、事態は急展開する。酒井忠清は信利の擁立をあきらめ、幸道が三代藩主に就くことを認めたのだ。松代藩の騒動は隠密を通して江戸に報告されていた。このまま混乱が続くと松代がとんでもないことになると判断したようだ。そして、その累は自分の進退にも及ぶのではないかと怖じ気づいたのかもしれない。
信之は幸道が藩主となったのを見とどけたのち、万治元年(一六五八)十月十七日、隠居所の柴村の屋敷で生涯を閉じた。九三歳という高齢であった。遺骨は真田家の菩提寺長国寺に葬られた。
沼田藩はその後、天和元年(一六八一)に改易となり、三万石は取りつぶしとなる。両国橋架け替え工事の遅延の責任を取らされたものであった。それはまた別の話である。
Posted by 南宜堂 at 00:32│Comments(0)
│真田十勇士