2011年09月21日
本日1名。
本日のお客さまは台風のためか1名様のみ。晴れていても少ないのだが。東京から出張で見えたつん堂さん。今日から23日まで滞在されるようだ。長野、小布施、軽井沢追分と県内3つの古本市に参加される。長野の古本屋には力強いサポーターだ。
昨日は久しぶりに新刊の本屋さんに行った。郊外店で本はあまり無い店なので、文庫と新書の棚を見たが、今買っておきたいと思う本が1冊もなかった。文庫は昔出た本の焼き直しが目につく。タマ不足なのだろうか。そう言えば当店にも出版社の文庫編集部から時々書籍の注文が入る。探しているのだろう。
新刊、古本を問わず、本を巡る業界の今というのは混沌として掴みにくいというのがつん堂さんと私たちの共通した認識だ。東京でもひっきりなしにお客の入っている古本屋というのは数える程だという。しかも、新しい本を適性価格で販売しているのが繁盛の秘密ではないかという。出たばかりの本をどうやったら安く手に入れることが出来るのだろうか。3人で頭をひねったものの答えは見出せなかった。
出たばかりの本を安く売られるというのは、新刊書店にとっても出版社にとっても経営を圧迫する 由々しき事態であるような気がする。今までは書店の客、古本屋の客というのはあまり重なることがなく住み分けができていたように思う。古本屋の客というのは昔出て沈殿しているような本をかき分けて探すような人たちだった。
そういう客はめっきり少なくなったのだろうか。良書を安価で手にいれるというのは読書家にはありがたいが。業界全体を痩せ細らせることにならないか。文庫本化の不文律と同じように出版されて一定期間を過ぎないと古本屋では扱わないようにでもしないとまずいよ。
昨日は久しぶりに新刊の本屋さんに行った。郊外店で本はあまり無い店なので、文庫と新書の棚を見たが、今買っておきたいと思う本が1冊もなかった。文庫は昔出た本の焼き直しが目につく。タマ不足なのだろうか。そう言えば当店にも出版社の文庫編集部から時々書籍の注文が入る。探しているのだろう。
新刊、古本を問わず、本を巡る業界の今というのは混沌として掴みにくいというのがつん堂さんと私たちの共通した認識だ。東京でもひっきりなしにお客の入っている古本屋というのは数える程だという。しかも、新しい本を適性価格で販売しているのが繁盛の秘密ではないかという。出たばかりの本をどうやったら安く手に入れることが出来るのだろうか。3人で頭をひねったものの答えは見出せなかった。
出たばかりの本を安く売られるというのは、新刊書店にとっても出版社にとっても経営を圧迫する 由々しき事態であるような気がする。今までは書店の客、古本屋の客というのはあまり重なることがなく住み分けができていたように思う。古本屋の客というのは昔出て沈殿しているような本をかき分けて探すような人たちだった。
そういう客はめっきり少なくなったのだろうか。良書を安価で手にいれるというのは読書家にはありがたいが。業界全体を痩せ細らせることにならないか。文庫本化の不文律と同じように出版されて一定期間を過ぎないと古本屋では扱わないようにでもしないとまずいよ。
2011年09月20日
反原発とタルホと
東京では、作家の大江健三郎さんらが呼びかけて2万人規模の反原発デモが行われたという。デモに参加することが自分の意志を示すことだと大江さんは言っていた。
私たちの1票が選び出した国会議員は私たちの意志とは関係なく勝手なことをしている。先日長野市では市会議員選挙が行われたが、長野市会議員は市民会館の建て替えを巡って住民の意志とはかけ離れた行動を取った。私は市民会館の建て替えに反対する候補に1票を入れたが、どうも勢力図に変化はなさそうだ。それでも機会あるごとに自分の意志を表し続けなければ、どうも世の中は私の気に入らないものたちが跋扈する世界になるようだ。
今日は店を休んで、午前中は寝ていた。昼近くに起きて部屋を少し掃除する。明日娘たちが来るので、綺麗にしておかないとうるさいのだ。
午後、ネットでの注文があったので、在庫の確認に店に寄る。珍しく若い男性のお客さんがいた。イナガキタルホを買っていただいた。数日前にもタルホを買った若い女性がいた。今ブームなのかと共同経営者と話す。
タルホにしろ、寺山修司にしろ、植草甚一にしろ、20代の彼らが生まれる前に活動していた人たちだ。その時代を知らない彼らには新鮮なのだろう。
私たちの1票が選び出した国会議員は私たちの意志とは関係なく勝手なことをしている。先日長野市では市会議員選挙が行われたが、長野市会議員は市民会館の建て替えを巡って住民の意志とはかけ離れた行動を取った。私は市民会館の建て替えに反対する候補に1票を入れたが、どうも勢力図に変化はなさそうだ。それでも機会あるごとに自分の意志を表し続けなければ、どうも世の中は私の気に入らないものたちが跋扈する世界になるようだ。
今日は店を休んで、午前中は寝ていた。昼近くに起きて部屋を少し掃除する。明日娘たちが来るので、綺麗にしておかないとうるさいのだ。
午後、ネットでの注文があったので、在庫の確認に店に寄る。珍しく若い男性のお客さんがいた。イナガキタルホを買っていただいた。数日前にもタルホを買った若い女性がいた。今ブームなのかと共同経営者と話す。
タルホにしろ、寺山修司にしろ、植草甚一にしろ、20代の彼らが生まれる前に活動していた人たちだ。その時代を知らない彼らには新鮮なのだろう。
2011年09月19日
一箱古本市に出店。
店に行くのは出勤というのか。まあ、営利目的でやっている古本屋だからそれでいいのだろう。駐車場に車を置いて、カネマツのラバーソウルで朝昼兼用の食事。スープにキノコのマリネに、パンの上にチーズのかかった具の載ったもの、名前は知らない。ここの食べ物はみな旨い。パン党でない私もここで優雅?な食事を時々楽しんでいる。
コーヒーの味などわからないわからない私だが、ここのコーヒーは口に合う。チーズを洗い流してくれて口の中がさっぱりするような苦みが、マスターはそこまで考えてブレンドしているのだろうか。相変わらずバックグラウンドはビートルズ、今日の曲はなじみの曲ばかり、「BACK TO USSR」ほか。
その後奥の遊歴書房へ。一箱古本市の申し込みをする。出ないつもりでいたが、来年につなげていくためにも賑やかしが必要かなと、出ることにした。そこら辺の経緯は、前にも書いた。ジャンルは他の出店者と重ならないように、郷土ものとミステリー。
店に帰り、共同経営者にそのことを報告。遊びなのだから、光風舎の出版物と私の著作と、そんなものを少し置くだけでいいじゃないかと言われる。そうは言っても、売れないのもせつないし。という訳で、23日にカネマツで行われる一箱古本市に南宜堂として出店することになりました。何を出すか、まだ決めておりません。当日は朝までアルバイトをして、それから会場に直行しますので、多分居眠りをしながらの店番になりそうです。なるべくよそで買っていただいて、静かにしておいてやってください。
夕方まで店番。暑いわけだ、長野で34度を超えたという。お上には申し訳ないが、冷房を入れる。ただてさえむさ苦しい店内、これで暑苦しかったのではお客さまに申し訳ない。とはいうものの、店は相変わらずヒマで、ここ2、3日はネットの注文もない。と、人ごとのように言っていられるのはアルバイトがあるからで、当分はやめられない。
コーヒーの味などわからないわからない私だが、ここのコーヒーは口に合う。チーズを洗い流してくれて口の中がさっぱりするような苦みが、マスターはそこまで考えてブレンドしているのだろうか。相変わらずバックグラウンドはビートルズ、今日の曲はなじみの曲ばかり、「BACK TO USSR」ほか。
その後奥の遊歴書房へ。一箱古本市の申し込みをする。出ないつもりでいたが、来年につなげていくためにも賑やかしが必要かなと、出ることにした。そこら辺の経緯は、前にも書いた。ジャンルは他の出店者と重ならないように、郷土ものとミステリー。
店に帰り、共同経営者にそのことを報告。遊びなのだから、光風舎の出版物と私の著作と、そんなものを少し置くだけでいいじゃないかと言われる。そうは言っても、売れないのもせつないし。という訳で、23日にカネマツで行われる一箱古本市に南宜堂として出店することになりました。何を出すか、まだ決めておりません。当日は朝までアルバイトをして、それから会場に直行しますので、多分居眠りをしながらの店番になりそうです。なるべくよそで買っていただいて、静かにしておいてやってください。
夕方まで店番。暑いわけだ、長野で34度を超えたという。お上には申し訳ないが、冷房を入れる。ただてさえむさ苦しい店内、これで暑苦しかったのではお客さまに申し訳ない。とはいうものの、店は相変わらずヒマで、ここ2、3日はネットの注文もない。と、人ごとのように言っていられるのはアルバイトがあるからで、当分はやめられない。
2011年09月18日
カルメン故郷に帰る
長野と軽井沢を結ぶ第三セクターのしなの鉄道の売りは、何と言っても 小諸・軽井沢間の車窓から望む浅間山の雄大な眺めである。前身のJR信越線を走る特急の愛称は「あさま」といった。現在の長野新幹線の愛称も「あさま」である。
その浅間山の麓の村を舞台にした映画「カルメン故郷に帰る」は1951年に封切られた日本初の総天然色映画として知られている。監督は木下恵介、主演は先ごろ亡くなった高峰秀子であった。その高峰秀子の派手な衣装と、舞台となった浅間山麓の雄大で美しい自然が、総天然色のスクリーンいっぱいに描かれていて、当時の観客はその鮮やかさにさぞや度肝を抜かれたことだろう。
この映画には、浅間山や草軽電鉄の車両が頻繁に登場することから、てっきり信州にロケしたものだとばかり思っていたのだが、リリー・ カルメン(高峰秀子)らが降り立った駅名表示は「北軽井沢」とあることから、群馬県長野原町が舞台になっているのだということがわかった。浅間山は上信国境にそびえる山であり、草軽電鉄は長野県軽井沢町と群馬県草津温泉を結んでいたのだから、上州が舞台であっても全くおかしくはない。全てが信州のものだと思い込むのは、信州人の悪癖である。
草軽電鉄と言えば十数年前、「信州の廃線紀行」(郷土出版社)という本の取材で、軽井沢から草津温泉まで、廃止になった線路の跡をカメラマンとともにたどったことを思い出した。北軽井沢の駅舎は健在で、当時はスナックになっていたと思う。
草軽電鉄は、大正15年に全線が開通した高原鉄道で、当時のキャッチフレーズは「東洋唯一の高原電車 登る山道四千尺」というものであった。主な目的は草津温泉への観光客の輸送であったが、戦後になって国鉄長野原線の開業やバス路線の発達により乗客は減少し、台風の被害などもあって、昭和37年に残された草津温泉ー上州三原駅間が廃止となり、全線が廃線となった。
映画の中では、草軽電鉄は都会と山村を結ぶ文明の利器として登場するのだが、トロッコに毛の生えたようなその電車は、カブトムシのような形をしていて愛嬌はあるのだが、今から見ると文明とは程遠い存在であった。
家出同然に村を出たカルメン(高峰秀子)が、友だちのマヤと浅間山麓の故郷に帰って来るところからこの物語ははじまる。この映画に描かれる村は、草軽の駅はあるものの、純然たる田舎で、貧しいながらものどかな人々の生活が営まれていた。
東京で踊り子(ストリッパー)をしているらしいカルメンとマヤ、彼女たちとこの村の人々の生活感の食い違いが騒動を巻き起こすわけだが、監督木下恵介の視線は、親子の愛、夫婦の愛、さらにはひたむきに生きる山村の人々の暖かさを描くことを忘れていない。この映画唯一の悪人である丸十運送の社長にしたところで、借金のカタに強制的に取り上げた盲目の作曲家のオルガンを、最後には返してやる。根っからの悪人ではないのだ。
そんないい人ばかりの村、朝夕に仰ぐ浅間山が美しい故郷の村に、カルメンはなぜ留まることができないで、また出て行くのか。小さい頃に牛に蹴られて少し頭の働きが弱くなったカルメンは、村の中では生きていく術が見つけられず、家出同然に村を出る。都会は彼女を受け入れ、生活の途を与えてくれた。そんな彼女には田舎は、チョッピリ懐かしいが退屈な場所だったのだ。
大げさに言えば、カルメンが村を出て、都会で踊り子という仕事を得て、一応は成功するまでに至った軌跡は、戦後の日本がたどってきた成功の軌跡と重なっているのではないか。北軽井沢という土地が同じような軌跡をたどっている。軽井沢の北という、おそらくは避暑にきた都会の人がつけたであろう通称を、この土地の人は受け入れ、軽井沢を見習ってリゾート化を進めてきた。現在の北軽井沢には、しゃれたペンションやカフェ、別荘やゴルフ場、テニスコートが あちこちに点在する一大リゾート地に変貌している。映画に出てくるような、酪農やわずかばかりの土地を耕して生活している貧しい村というイメージとは大違いである。
丸十の社長は、村にリゾートホテルを誘致しようという計画を持っているのだが、それがその後に訪れた高度成長の中でどのように実現していくのか。映画の後の時代を知る私たちには、社長の構想が決して夢物語ではないということを知っている。映画の中の村だけではない。日本中の村が、丸十の社長のように発展を願って行動してきたというのが日本の戦後社会であった。
さらに私たちは、そんな浮かれた日本がバブルの崩壊により弾け飛んだ時代もまた知っている。高度成長の真っ只中にあった時、誰も口に出さなかった「かけがいのない地球」とか「自然を大切にしよう」とかいうスローガンが言われるようになった。しかし、これらの声は多分に情緒的であり、社会全体をおおうほどのものではなかった。いまだに成長神話が幅をきかせていたのである。
今年の3月11日、福島の原発事故は成長の果てに文明が行きつく先の姿というものを、まざまざと見せつけられた。それでも懲りない人たちはいる。日本の飽くなき成長のためには原子力発電所は絶対に必要だという声があちらこちらから聞こえてきているのである。
その浅間山の麓の村を舞台にした映画「カルメン故郷に帰る」は1951年に封切られた日本初の総天然色映画として知られている。監督は木下恵介、主演は先ごろ亡くなった高峰秀子であった。その高峰秀子の派手な衣装と、舞台となった浅間山麓の雄大で美しい自然が、総天然色のスクリーンいっぱいに描かれていて、当時の観客はその鮮やかさにさぞや度肝を抜かれたことだろう。
この映画には、浅間山や草軽電鉄の車両が頻繁に登場することから、てっきり信州にロケしたものだとばかり思っていたのだが、リリー・ カルメン(高峰秀子)らが降り立った駅名表示は「北軽井沢」とあることから、群馬県長野原町が舞台になっているのだということがわかった。浅間山は上信国境にそびえる山であり、草軽電鉄は長野県軽井沢町と群馬県草津温泉を結んでいたのだから、上州が舞台であっても全くおかしくはない。全てが信州のものだと思い込むのは、信州人の悪癖である。
草軽電鉄と言えば十数年前、「信州の廃線紀行」(郷土出版社)という本の取材で、軽井沢から草津温泉まで、廃止になった線路の跡をカメラマンとともにたどったことを思い出した。北軽井沢の駅舎は健在で、当時はスナックになっていたと思う。
草軽電鉄は、大正15年に全線が開通した高原鉄道で、当時のキャッチフレーズは「東洋唯一の高原電車 登る山道四千尺」というものであった。主な目的は草津温泉への観光客の輸送であったが、戦後になって国鉄長野原線の開業やバス路線の発達により乗客は減少し、台風の被害などもあって、昭和37年に残された草津温泉ー上州三原駅間が廃止となり、全線が廃線となった。
映画の中では、草軽電鉄は都会と山村を結ぶ文明の利器として登場するのだが、トロッコに毛の生えたようなその電車は、カブトムシのような形をしていて愛嬌はあるのだが、今から見ると文明とは程遠い存在であった。
家出同然に村を出たカルメン(高峰秀子)が、友だちのマヤと浅間山麓の故郷に帰って来るところからこの物語ははじまる。この映画に描かれる村は、草軽の駅はあるものの、純然たる田舎で、貧しいながらものどかな人々の生活が営まれていた。
東京で踊り子(ストリッパー)をしているらしいカルメンとマヤ、彼女たちとこの村の人々の生活感の食い違いが騒動を巻き起こすわけだが、監督木下恵介の視線は、親子の愛、夫婦の愛、さらにはひたむきに生きる山村の人々の暖かさを描くことを忘れていない。この映画唯一の悪人である丸十運送の社長にしたところで、借金のカタに強制的に取り上げた盲目の作曲家のオルガンを、最後には返してやる。根っからの悪人ではないのだ。
そんないい人ばかりの村、朝夕に仰ぐ浅間山が美しい故郷の村に、カルメンはなぜ留まることができないで、また出て行くのか。小さい頃に牛に蹴られて少し頭の働きが弱くなったカルメンは、村の中では生きていく術が見つけられず、家出同然に村を出る。都会は彼女を受け入れ、生活の途を与えてくれた。そんな彼女には田舎は、チョッピリ懐かしいが退屈な場所だったのだ。
大げさに言えば、カルメンが村を出て、都会で踊り子という仕事を得て、一応は成功するまでに至った軌跡は、戦後の日本がたどってきた成功の軌跡と重なっているのではないか。北軽井沢という土地が同じような軌跡をたどっている。軽井沢の北という、おそらくは避暑にきた都会の人がつけたであろう通称を、この土地の人は受け入れ、軽井沢を見習ってリゾート化を進めてきた。現在の北軽井沢には、しゃれたペンションやカフェ、別荘やゴルフ場、テニスコートが あちこちに点在する一大リゾート地に変貌している。映画に出てくるような、酪農やわずかばかりの土地を耕して生活している貧しい村というイメージとは大違いである。
丸十の社長は、村にリゾートホテルを誘致しようという計画を持っているのだが、それがその後に訪れた高度成長の中でどのように実現していくのか。映画の後の時代を知る私たちには、社長の構想が決して夢物語ではないということを知っている。映画の中の村だけではない。日本中の村が、丸十の社長のように発展を願って行動してきたというのが日本の戦後社会であった。
さらに私たちは、そんな浮かれた日本がバブルの崩壊により弾け飛んだ時代もまた知っている。高度成長の真っ只中にあった時、誰も口に出さなかった「かけがいのない地球」とか「自然を大切にしよう」とかいうスローガンが言われるようになった。しかし、これらの声は多分に情緒的であり、社会全体をおおうほどのものではなかった。いまだに成長神話が幅をきかせていたのである。
今年の3月11日、福島の原発事故は成長の果てに文明が行きつく先の姿というものを、まざまざと見せつけられた。それでも懲りない人たちはいる。日本の飽くなき成長のためには原子力発電所は絶対に必要だという声があちらこちらから聞こえてきているのである。
2011年09月16日
小布施の文化
かつての小布施は、松代、須坂、中野を結ぶ谷街道沿いの埃っぽい町であったという印象がある。それが落ち着いた懐かしさを感じさせる街並みに変貌したのだ。妻籠や奈良井のように歴史的な建造物をそのままに保存するというのではなく、修景するということが大きな特徴であった。現代に江戸の生活を持ち込んでも不便なだけだ。外観には和のコンセプトを生かしながらも、材料や構造は最先端のものをというのが修景事業の特徴であったと思う。かくて、 はじめは栗菓子店とその周辺だけであった修景事業という構想は町全体に広がっていった。
街並み修景事業からこちらの小布施の変貌を見ていると、これらの事業を推進しているのは中流(ブルジョア)の文化ではないかということを思った。一億総中流という日本的な中流ではなく、西欧の市民社会を支えてきたブルジョアの意味である。
江戸を小布施に再現するという日光江戸村的な発想ではなく、小布施の場合は住人の立場に立って、快適な生活を維持しつつ落ち着いた街並みを作ろうというものであった。観光第一ではなく、住人の住みやすさが優先するという、衣食足りた後の余裕のようなものが感じられたのである。
その後に作られたレストランやホテルの趣きを見ても、大型観光バスで乗り付け、わーっと騒いで帰るような団体ツアーを拒否しているようなところがある。実際にはそういう団体も受け入れる度量は残しているのだが。
さらには、街並み修景事業の中心であった栗菓子店の小布施堂 は、文化事業にも力をいれ、かつての新宿中村屋サロンを彷彿させるような小布施堂サロン的な場を形づくっている。その中心となっているのが小布施堂現店主の市村次夫氏であろう。
こういった小布施の文化ともいうべきものの底流には、高井鴻山的な進取の精神が流れているように思われる。鴻山こそは財の上に文化を築くというブルジョア的な生き方の先駆のような人物であった。
北斎を小布施に招いたことにしろ、当時の小布施では金持ちの酔狂くらいにしか思われなかったのではないか。寺社や豪農たちはこぞって揮毫を依頼したろうが、農民にとっては北斎と言われても何のことなのかわからなかっただろうと思う。
北斎にしてみれば、画室を与えられ、一流の文人ともてはやされ、しかも江戸では得られない収入になったろうから、鴻山はありがたい旦那さまであっただろう。今でこそ世界の北斎だが、当時は一介の画工でしかなかった。その浮世絵の下絵師が本画を思う存分に書ける小布施は、老体を引きずっても訪れる甲斐のある町だったに違いない。
高井鴻山という人が意識していたかどうかは別として、小布施に北斎という種を蒔いたのである。それが100年という長い時間を経て、芽を出し花開いた。と言えるかどうか。北斎は世界的になり、小布施も多くの観光客で賑わっている。これが開花であり、成功であるというのならいいのだが、私は少し釈然としないものを残している。多くの人が訪れ、経済的な効果も十分にあったということが成功だったとはいえないのではないかと思うからだ。
街並み修景事業からこちらの小布施の変貌を見ていると、これらの事業を推進しているのは中流(ブルジョア)の文化ではないかということを思った。一億総中流という日本的な中流ではなく、西欧の市民社会を支えてきたブルジョアの意味である。
江戸を小布施に再現するという日光江戸村的な発想ではなく、小布施の場合は住人の立場に立って、快適な生活を維持しつつ落ち着いた街並みを作ろうというものであった。観光第一ではなく、住人の住みやすさが優先するという、衣食足りた後の余裕のようなものが感じられたのである。
その後に作られたレストランやホテルの趣きを見ても、大型観光バスで乗り付け、わーっと騒いで帰るような団体ツアーを拒否しているようなところがある。実際にはそういう団体も受け入れる度量は残しているのだが。
さらには、街並み修景事業の中心であった栗菓子店の小布施堂 は、文化事業にも力をいれ、かつての新宿中村屋サロンを彷彿させるような小布施堂サロン的な場を形づくっている。その中心となっているのが小布施堂現店主の市村次夫氏であろう。
こういった小布施の文化ともいうべきものの底流には、高井鴻山的な進取の精神が流れているように思われる。鴻山こそは財の上に文化を築くというブルジョア的な生き方の先駆のような人物であった。
北斎を小布施に招いたことにしろ、当時の小布施では金持ちの酔狂くらいにしか思われなかったのではないか。寺社や豪農たちはこぞって揮毫を依頼したろうが、農民にとっては北斎と言われても何のことなのかわからなかっただろうと思う。
北斎にしてみれば、画室を与えられ、一流の文人ともてはやされ、しかも江戸では得られない収入になったろうから、鴻山はありがたい旦那さまであっただろう。今でこそ世界の北斎だが、当時は一介の画工でしかなかった。その浮世絵の下絵師が本画を思う存分に書ける小布施は、老体を引きずっても訪れる甲斐のある町だったに違いない。
高井鴻山という人が意識していたかどうかは別として、小布施に北斎という種を蒔いたのである。それが100年という長い時間を経て、芽を出し花開いた。と言えるかどうか。北斎は世界的になり、小布施も多くの観光客で賑わっている。これが開花であり、成功であるというのならいいのだが、私は少し釈然としないものを残している。多くの人が訪れ、経済的な効果も十分にあったということが成功だったとはいえないのではないかと思うからだ。
Posted by 南宜堂 at
11:47
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