2012年11月23日
宿題を意識しつつ
真田信之は長命であった。明暦四年十月、九十三年の天寿を全うして松代城外柴村の隠居所で没している。
思えば数奇な生涯であった。若いころは父昌幸の後継者として、真田家を守るために戦いに明け暮れる毎日であった。天正十三年(一五八五)、弱冠二十歳の若武者信幸(関ヶ原の戦いの後は信之と改名する。従って本書では関ヶ原の戦いまでは信之、戦い後は信之と表記する)は、迫り来る徳川の大軍を相手に縦横無尽の活躍をした。第一次の上田合戦である。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦い前夜、信幸は父や弟信繁(『真田三代記』などでは幸村として登場するが、実際は信繁。しかし幸村の方が人口に膾炙しているので、本書ではおもに幸村と表記する)と袂を分かち、徳川方の陣に参じた。
戦後は昌幸の遺領を継いで上田城主となり、元和元年(一六二二)国替えにより松代に移される。このときすでに信之は五十七歳であった。
松代に移った信之は、老齢を理由に何度も隠居を申し出るが、幕府はなかなかこれを許さず、ようやく隠居が認められたのは、明暦三年(一六五七)九十二歳の時であった。
しかし、翌年二代藩主となった信政が病死する。残された嫡男の幸道はまだ二歳、分家沼田城主であった信利との間で家督争いが起こり、信之はその収拾のために翻弄されることになる。結局松代十万石は幸道が継ぐことで決着するが、この心労からか十月信之は没するのである。
信之の没後、真田家は十代二百五十年にわたって松代十万石の藩主として君臨する。その歴史については拙著『シリーズ藩物語 松代藩』(現代書館刊行)を参考にしていただきたいが、太平の世に外様大名として生き抜くために苦難の連続であった。これもまたひとつの真田の歴史であるのだが、多くの人に知られているのはそれ以前の戦国から大坂夏の陣までを駆け抜けた風雲児真田の歴史である。
このふたつの真田の歴史は、決して断絶したものではなく、信州小県の小豪族であったころから連綿と続き、江戸時代にまで受け継がれた真田の血がなしたものであった。そして、このふたつの歴史の結節点にいるのが、信之・幸村の兄弟なのである。
思えば数奇な生涯であった。若いころは父昌幸の後継者として、真田家を守るために戦いに明け暮れる毎日であった。天正十三年(一五八五)、弱冠二十歳の若武者信幸(関ヶ原の戦いの後は信之と改名する。従って本書では関ヶ原の戦いまでは信之、戦い後は信之と表記する)は、迫り来る徳川の大軍を相手に縦横無尽の活躍をした。第一次の上田合戦である。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦い前夜、信幸は父や弟信繁(『真田三代記』などでは幸村として登場するが、実際は信繁。しかし幸村の方が人口に膾炙しているので、本書ではおもに幸村と表記する)と袂を分かち、徳川方の陣に参じた。
戦後は昌幸の遺領を継いで上田城主となり、元和元年(一六二二)国替えにより松代に移される。このときすでに信之は五十七歳であった。
松代に移った信之は、老齢を理由に何度も隠居を申し出るが、幕府はなかなかこれを許さず、ようやく隠居が認められたのは、明暦三年(一六五七)九十二歳の時であった。
しかし、翌年二代藩主となった信政が病死する。残された嫡男の幸道はまだ二歳、分家沼田城主であった信利との間で家督争いが起こり、信之はその収拾のために翻弄されることになる。結局松代十万石は幸道が継ぐことで決着するが、この心労からか十月信之は没するのである。
信之の没後、真田家は十代二百五十年にわたって松代十万石の藩主として君臨する。その歴史については拙著『シリーズ藩物語 松代藩』(現代書館刊行)を参考にしていただきたいが、太平の世に外様大名として生き抜くために苦難の連続であった。これもまたひとつの真田の歴史であるのだが、多くの人に知られているのはそれ以前の戦国から大坂夏の陣までを駆け抜けた風雲児真田の歴史である。
このふたつの真田の歴史は、決して断絶したものではなく、信州小県の小豪族であったころから連綿と続き、江戸時代にまで受け継がれた真田の血がなしたものであった。そして、このふたつの歴史の結節点にいるのが、信之・幸村の兄弟なのである。
Posted by 南宜堂 at 11:57│Comments(0)
│真田十勇士