2013年01月16日
真田信之 2
真田信幸は永禄九年(一五六六)に甲府で生まれている。一説には小県郡の戸石城で生まれたとも言われるが、この頃父昌幸は武田信玄の旗本として出仕していたことから、その妻子が甲府に住むことは自然である。母は昌幸の正室山手殿(寒松院、宇多賴忠の娘)で幼名を源三郎といった。
弟の幸村の生年については正確な史料が残されていないが、慶長二十年(一六一五)四十九歳の没年から逆算して、永禄十年(一五六七)と推定されている。母は兄信幸と同じ山手殿、幼名は源次郎といった。幸村の出生にはいろいろ異説があって、母は山手殿ではなく、もっと低い身分の女性であったという説、また実際は幸村が兄で信幸が弟であったという説などあるがその信憑性は低い。
先に述べたように、二人の父昌幸は当時武田信玄の旗本で、武藤喜兵衛を名乗っていた。昌幸の父親である真田幸隆が信玄に臣従したため、まだ幼かった昌幸は信玄のもとへ人質として送られた。信玄の側近として仕えていたが、やがて甲斐の名家である武藤家を継いで旗本となるのである。
二人が生まれたころ信玄は上野に勢力を広げようとしていた。祖父幸隆はその先兵となって西上野に進出していたのだが、真田氏の歴史はこの幸隆の存在抜きには語れない。
天文十年(一五四一)五月、甲斐の武田信虎は信濃の豪族諏訪頼重、村上義清と謀って信州小県の豪族海野棟綱に戦いを仕掛けた。後にいうところの「海野平の合戦」である。もっとも激しい戦いは千曲川との合流点近くの神川の河原で行われ、棟綱の嫡男幸義が戦死している
敗れた海野棟綱は関東管領上杉憲政を頼って上野に逃れた。憲政は三千騎の兵を信濃に送ったが、武田軍は既に引き揚げた後で、村上氏と戦うことなく帰還した。結局棟綱は故国奪回の望みを絶たれ、名家海野氏は滅びる。
海野氏の一族である真田幸隆もこの戦いに参戦しており、こちらは上野国箕輪城の長野業正のもとに落ちのびた。真田と西上野地方は鳥居峠を挟んで道が通じており、古くから交流があった。
真田幸隆は永正十年(一五一三)に誕生したとされている。海野宗家の頭領棟綱の子とも、また棟綱の娘婿であった真田頼昌の子ともいわれているが、どちらも確かな根拠はない。いずれにせよ、この頃の真田氏は海野氏との関係を強め臣従していたものであろう。
弟の幸村の生年については正確な史料が残されていないが、慶長二十年(一六一五)四十九歳の没年から逆算して、永禄十年(一五六七)と推定されている。母は兄信幸と同じ山手殿、幼名は源次郎といった。幸村の出生にはいろいろ異説があって、母は山手殿ではなく、もっと低い身分の女性であったという説、また実際は幸村が兄で信幸が弟であったという説などあるがその信憑性は低い。
先に述べたように、二人の父昌幸は当時武田信玄の旗本で、武藤喜兵衛を名乗っていた。昌幸の父親である真田幸隆が信玄に臣従したため、まだ幼かった昌幸は信玄のもとへ人質として送られた。信玄の側近として仕えていたが、やがて甲斐の名家である武藤家を継いで旗本となるのである。
二人が生まれたころ信玄は上野に勢力を広げようとしていた。祖父幸隆はその先兵となって西上野に進出していたのだが、真田氏の歴史はこの幸隆の存在抜きには語れない。
天文十年(一五四一)五月、甲斐の武田信虎は信濃の豪族諏訪頼重、村上義清と謀って信州小県の豪族海野棟綱に戦いを仕掛けた。後にいうところの「海野平の合戦」である。もっとも激しい戦いは千曲川との合流点近くの神川の河原で行われ、棟綱の嫡男幸義が戦死している
敗れた海野棟綱は関東管領上杉憲政を頼って上野に逃れた。憲政は三千騎の兵を信濃に送ったが、武田軍は既に引き揚げた後で、村上氏と戦うことなく帰還した。結局棟綱は故国奪回の望みを絶たれ、名家海野氏は滅びる。
海野氏の一族である真田幸隆もこの戦いに参戦しており、こちらは上野国箕輪城の長野業正のもとに落ちのびた。真田と西上野地方は鳥居峠を挟んで道が通じており、古くから交流があった。
真田幸隆は永正十年(一五一三)に誕生したとされている。海野宗家の頭領棟綱の子とも、また棟綱の娘婿であった真田頼昌の子ともいわれているが、どちらも確かな根拠はない。いずれにせよ、この頃の真田氏は海野氏との関係を強め臣従していたものであろう。

Posted by 南宜堂 at 23:07│Comments(0)
│真田十勇士