2010年09月09日

続・善光寺に行こう

 善光寺の創建については、昨年の春刊行した「こんなにもある善光寺のなぞ」(一草舍)に書いたので重複は避けますが、遅くとも奈良時代には建てられていたようです。平安時代には都にもその名が知られていたので、その頃には門前町もできていたのではないでしょうか。
 もともと善光寺は北信濃の豪族の氏寺であったようです。そんな一地方寺院が全国でも有数の有名寺院になったのは、ひとえに宣伝の力が大きかったと思います。豪族が滅びれば氏寺も滅びます。当時の寺院が廃寺として遺構だけをだけを残しているのを見てもわかります。善光寺は生き残ったわけですが、その方策というのが「善光寺縁起」です。善光寺には三国伝来の善光寺如来を祀るとして、その由来が物語風に書かれています。そしてその奇跡としか思えないその霊験も書かれています。
 しかし、ただ書かれただけでは一部の知識人しか読むことができません。この「善光寺縁起」の功徳を全国津々浦々まで出かけていって語ったのがいわゆる「善光寺聖」といわれた僧たちです。
 鎌倉時代には、源頼朝や執権北条氏の信仰もあり、多くの参詣人が訪れていました。貴人だけではありません。善光寺如来の慈悲にすがろうと、一般の庶民も多く訪れました。民衆が簡単に旅ができる時代ではありませんから、自ずとそこには共同体を追われた、流浪の民が多く集まったのです。
 一遍の聖絵というのを見ますと、善光寺の本堂の前で一心不乱に念仏を唱える一遍たちの姿が描かれていますが、善光寺ではいつでもそんな光景が見られたことでしょう。いわばこの世の極楽です。現世では救われることがない人々が集まって、一時の極楽を夢見る場所が善光寺でした。情の世界です。
 中世というのはこういう情が支配する世界です。龍馬たちが夢見た理による革命の世界とはだいぶ趣が異なるのではないでしょうか。そんな情が支配する世界に武をもって割り込んできたのが武士たちであり、やがて彼らは独自の道徳やら政治理念を生み出し、それによって世の中を支配するようになるのです。
 話が脱線してしまいました。善光寺のことです。産業も資源もない、交通の便も悪い長野が「日本の港」などといわれるようになったのは、善光寺信仰によって多くの人々がここに集まってきたからです。いってみれば、長野は情の都です。今風にいうなら「魂のふるさと」などといえばいいのでしょうか。  

Posted by 南宜堂 at 12:33Comments(0)