2010年09月30日
早すぎる晩年 真田幸村の場合
真田昌幸と子の信幸、信繁(幸村)が、石田三成の挙兵を聞いたのは下野の犬伏においてであった。この時真田軍は、徳川家康に従って会津の上杉景勝を攻める途次にあった。
昌幸と幸村が豊臣方に、信幸が徳川方にと袂を分かったのはここにおいてであったという。昌幸と幸村は上田に戻り、関ヶ原に向かう徳川秀忠の軍を迎え撃つ。この時、真田幸村34歳であった。それまで人質生活が長かった幸村は、この時が実質的な初陣であった。しかし、この戦いにしても指揮を執ったのは父昌幸であり、幸村はその作戦に従って戦ったにすぎない。
秀忠3万8千の軍勢に対し、真田軍2千5百。しかし、真田軍はよく持ちこたえ、秀忠は結局上田城を落とすことができず関ヶ原に向かった。上田での足止めが響いて関ヶ原に遅参した秀忠は大いに家康の怒りをかったという。
関ヶ原の戦いの後、昌幸、幸村は死罪は免れないところであったが、信幸の取りなしによって、高野山への配流が決まった。12月13日、昌幸、幸村とその近臣たちは上田を発ち、高野山に向かった。
真田幸隆・昌幸を中心とする関ヶ原以前の真田の活躍と、大阪冬の陣・夏の陣における幸村の活躍は小説やドラマに取り上げられているが、九度山における昌幸・幸村のことはあまり語られることがない。行動も自由にはできない配流の身であり、日々単調に過ぎていったものと思うが、34歳で隠居同然のみとなった幸村にはどんな日々であったのだろうか。
立川文庫などでは、盛んに全国に密偵を放って各大名の動静を探っていたというように書かれているが、実際はそんなことはなかったようだ。昭和60年に東信史学会というところが作った「真田一族の史実とロマン」という本がある。上田を中心とした地元の研究者が作った本だが、ここには配流生活がようすが資料に基づいて描かれている。
それによると、昌幸に付き従って九度山に落ちた家臣は16名となっている。幸村については不明だが、同じくらいかそれ以上の家族、家臣が同行したことが考えられる。50人ほどのものが上田から九度山に行ったと考えればいいだろうか。
その収入は国元(上田)の信之(信幸から改名)から送られる合力(手当金)だけであった。この金額がどれほどであったかは不明であると同書は書いているが、合力の追加を要請する手紙や病気で生活が苦しいという手紙が昌幸から国元に送られていることから、その生活は苦しかったのではないかとしている。
九度山に来た当初は赦免への期待を強く持っていたようだが、配流生活が長くなるにつけ、その望みもだんだんにしぼんでいったようなのである。伝説などでは真田紐を考案し、それを全国に売り歩いたとされているがどうも眉唾であるようだ。
慶長16年、真田昌幸は失意のうちに九度山で64歳の生涯を閉じた。戦国の世に生まれ、武田、徳川、北条、豊臣と次々と付き従う相手を変えながらしたたかに生き抜いてきた武将の寂しい最期であった。しかし、晩年は不幸であったが、昌幸にはそれなりに活躍の場が与えられていた。残された幸村はこれから長い日々を何の望みもない身として生きていかねばならない。この時の幸村の胸に去来した思いはどんなであったろうか。
昌幸と幸村が豊臣方に、信幸が徳川方にと袂を分かったのはここにおいてであったという。昌幸と幸村は上田に戻り、関ヶ原に向かう徳川秀忠の軍を迎え撃つ。この時、真田幸村34歳であった。それまで人質生活が長かった幸村は、この時が実質的な初陣であった。しかし、この戦いにしても指揮を執ったのは父昌幸であり、幸村はその作戦に従って戦ったにすぎない。
秀忠3万8千の軍勢に対し、真田軍2千5百。しかし、真田軍はよく持ちこたえ、秀忠は結局上田城を落とすことができず関ヶ原に向かった。上田での足止めが響いて関ヶ原に遅参した秀忠は大いに家康の怒りをかったという。
関ヶ原の戦いの後、昌幸、幸村は死罪は免れないところであったが、信幸の取りなしによって、高野山への配流が決まった。12月13日、昌幸、幸村とその近臣たちは上田を発ち、高野山に向かった。
真田幸隆・昌幸を中心とする関ヶ原以前の真田の活躍と、大阪冬の陣・夏の陣における幸村の活躍は小説やドラマに取り上げられているが、九度山における昌幸・幸村のことはあまり語られることがない。行動も自由にはできない配流の身であり、日々単調に過ぎていったものと思うが、34歳で隠居同然のみとなった幸村にはどんな日々であったのだろうか。
立川文庫などでは、盛んに全国に密偵を放って各大名の動静を探っていたというように書かれているが、実際はそんなことはなかったようだ。昭和60年に東信史学会というところが作った「真田一族の史実とロマン」という本がある。上田を中心とした地元の研究者が作った本だが、ここには配流生活がようすが資料に基づいて描かれている。
それによると、昌幸に付き従って九度山に落ちた家臣は16名となっている。幸村については不明だが、同じくらいかそれ以上の家族、家臣が同行したことが考えられる。50人ほどのものが上田から九度山に行ったと考えればいいだろうか。
その収入は国元(上田)の信之(信幸から改名)から送られる合力(手当金)だけであった。この金額がどれほどであったかは不明であると同書は書いているが、合力の追加を要請する手紙や病気で生活が苦しいという手紙が昌幸から国元に送られていることから、その生活は苦しかったのではないかとしている。
九度山に来た当初は赦免への期待を強く持っていたようだが、配流生活が長くなるにつけ、その望みもだんだんにしぼんでいったようなのである。伝説などでは真田紐を考案し、それを全国に売り歩いたとされているがどうも眉唾であるようだ。
慶長16年、真田昌幸は失意のうちに九度山で64歳の生涯を閉じた。戦国の世に生まれ、武田、徳川、北条、豊臣と次々と付き従う相手を変えながらしたたかに生き抜いてきた武将の寂しい最期であった。しかし、晩年は不幸であったが、昌幸にはそれなりに活躍の場が与えられていた。残された幸村はこれから長い日々を何の望みもない身として生きていかねばならない。この時の幸村の胸に去来した思いはどんなであったろうか。