2010年09月24日

日々是好日 高遠を大河ドラマの舞台に

 ブックフェスティバルが開かれた高遠は、江戸時代は内藤家3万石の城下町であった。徳川時代の初期には保科氏が治めていた。2代目の藩主が保科正之である。町のあちらこちらには「名君保科正之公の大河ドラマをつくろう」の幟が目立つ。
 保科正之は2代将軍秀忠の庶子で、会津松平家の藩祖となった。この保科正之を大河ドラマにという動きは、伊那市に合併する前の高遠町の頃からあった。
 今回高遠に行くに当たって、保科氏のことも少し調べてきたいと思ったのだが、あいにく城址公園にある博物館は休館であった。仕方ないので、中庭にあった正之母子の石像を写真におさめてきた。
 おらが町の有名人を大河ドラマにという運動はあちこちで行われているようである。先頃、県内のそんな団体が寄り集まってサミットを開いたという話を聞いた。
 どうして地域の人々がそんなに大河ドラマに熱を上げるのかということは、今年の高知や長崎の龍馬ブームを見るまでもないことだ。とにかく人が来るのである。人が来ればお金が落ちて地域の活性化につながるという、いいことずくめの構造がそこにはあるというわけだ。
 こういう話は昔からあった。「天と地と」が放映されたとき、長野市の八幡原には両雄一騎打ちの像ができ、土産物店もできた。それまでは古戦場といっても、お宮と土塁が残る程度の場所で、ここで有名な川中島の戦いが行われたといっても、なかなか想像がつかなかったものである。
 しかしここで信玄と謙信が一騎打ちとしたのかというと、それはどうも怪しいのではないかという。その根拠は「甲陽軍鑑」をはじめとする軍記物にあるのだが、これは江戸時代にできたもので、信憑性については疑問視されている。これは絵になる光景であるから、小説でもドラマでも必ずこれが描かれる。
 テレビを見て、川中島に来てこの像を見れば、誰もがこの歴史的事実を疑うことはない。かくして歴史は作られるのである。川中島の戦いに限らず、今年の「龍馬伝」においてもそういった作られた歴史がまかり通っているようだ。
 この南宜堂ブログでも以前に照桂院様が指摘していた「龍馬伝」における京都守護職の松平容保の描かれ方について会津では相当に非難の声が上がっているという。松平容保といえばその藩祖は保科正之、正之公も苦り切っているのかも知れない。
  

Posted by 南宜堂 at 21:17Comments(6)