2010年09月27日
大河ドラマは事実か
◯◯は歴史の事実を伝えているのか。
この◯◯に小説とかテレビドラマとか映画とかの言葉を当てはめてみれば、答えは「否」であろう。
それではここに歴史学という言葉を当てはめてみれば、これは難しい問いになるが、より事実に近いとか、事実に近づくことをめざしているとかいった答えが返ってくるかも知れない。
だから、同じ歴史を描くにしても、小説と歴史学とはまったく異なったものであるということをわきまえておかねばならない。毎年のように繰り返される、NHKの大河ドラマへの批判は、その辺の混乱が原因なのである。あれはフィクションなのだ。歴史に題材を取った物語なのだ。その辺を明確にしておけばいいのに、ドラマの作り手の側にも歴史を描いているのだという錯覚があるのではないか。
一方でこういった混乱を生む背景には、歴史愛好家と呼ばれるおびただしい数の人たちがいるのだということもまた確かなことだ。歴史愛好家というのは岩波新書と司馬遼太郎の小説を同じ地平で論ずる人たちといえばわかりやすいかもしれない。そもそもが、岩波新書や中公新書の「坂本龍馬」と司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を同じ地平で論ずることが間違っているのである。同様に学者の側からも岩波新書をもって「竜馬がゆく」を批判するようなところもあるようだ。
坂本龍馬という一人の人間の真実に迫りたいということでは、作家の司馬遼太郎も歴史家の松浦玲も同じだと思う。あるいは、司馬遼太郎という作家は歴史を俯瞰する眼をもっているので、坂本龍馬を通して幕末維新の時代を描きたいという思いも共通していると思う。ただその手法において、松浦が資料を積み上げて実証的に迫るのに対して、司馬の場合は直感的に龍馬を掴んでしまうということであると思う。
その司馬の掴みというのは「龍馬はおもしろい生を生きたよなあ」という共感であると松浦氏は言いたいようである。それが読者への共感となって、読者は司馬遼太郎の描く龍馬こそが歴史なのだと思うようになるというのである。たとえば、松浦氏は薩長同盟成立後の龍馬の下関時代をあげる。薩長同盟が成立して、薩摩にとっても長州にとっても龍馬は不要になった。加えて経済的にも困窮していた時で、この時の龍馬は惨めな生活を送っていたのではないかというのだが、「竜馬がゆく」ではそこがすっかりほかの話にすり替えられているという。
要するに司馬の書きたかったのは面白い生を生きた龍馬であって、惨めな龍馬ではなかったということであるのだ。作家はそれでいいと松浦氏は言いたいようである。しかし、事実を追求しなければならない歴史家はそうはいかない。惨めな龍馬もそれが事実であれば描かなければいけない。
読者は、「竜馬がゆく」が大いに読まれた高度経済成長の時代の読者はそうなのだが、司馬の龍馬に共感し、それが歴史だと信じ込んでしまう。歴史学の立場で違う面の龍馬を提示しても信じてはもらえない。それは松浦氏としては悔しいだろうなと思う。
この◯◯に小説とかテレビドラマとか映画とかの言葉を当てはめてみれば、答えは「否」であろう。
それではここに歴史学という言葉を当てはめてみれば、これは難しい問いになるが、より事実に近いとか、事実に近づくことをめざしているとかいった答えが返ってくるかも知れない。
だから、同じ歴史を描くにしても、小説と歴史学とはまったく異なったものであるということをわきまえておかねばならない。毎年のように繰り返される、NHKの大河ドラマへの批判は、その辺の混乱が原因なのである。あれはフィクションなのだ。歴史に題材を取った物語なのだ。その辺を明確にしておけばいいのに、ドラマの作り手の側にも歴史を描いているのだという錯覚があるのではないか。
一方でこういった混乱を生む背景には、歴史愛好家と呼ばれるおびただしい数の人たちがいるのだということもまた確かなことだ。歴史愛好家というのは岩波新書と司馬遼太郎の小説を同じ地平で論ずる人たちといえばわかりやすいかもしれない。そもそもが、岩波新書や中公新書の「坂本龍馬」と司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を同じ地平で論ずることが間違っているのである。同様に学者の側からも岩波新書をもって「竜馬がゆく」を批判するようなところもあるようだ。
坂本龍馬という一人の人間の真実に迫りたいということでは、作家の司馬遼太郎も歴史家の松浦玲も同じだと思う。あるいは、司馬遼太郎という作家は歴史を俯瞰する眼をもっているので、坂本龍馬を通して幕末維新の時代を描きたいという思いも共通していると思う。ただその手法において、松浦が資料を積み上げて実証的に迫るのに対して、司馬の場合は直感的に龍馬を掴んでしまうということであると思う。
その司馬の掴みというのは「龍馬はおもしろい生を生きたよなあ」という共感であると松浦氏は言いたいようである。それが読者への共感となって、読者は司馬遼太郎の描く龍馬こそが歴史なのだと思うようになるというのである。たとえば、松浦氏は薩長同盟成立後の龍馬の下関時代をあげる。薩長同盟が成立して、薩摩にとっても長州にとっても龍馬は不要になった。加えて経済的にも困窮していた時で、この時の龍馬は惨めな生活を送っていたのではないかというのだが、「竜馬がゆく」ではそこがすっかりほかの話にすり替えられているという。
要するに司馬の書きたかったのは面白い生を生きた龍馬であって、惨めな龍馬ではなかったということであるのだ。作家はそれでいいと松浦氏は言いたいようである。しかし、事実を追求しなければならない歴史家はそうはいかない。惨めな龍馬もそれが事実であれば描かなければいけない。
読者は、「竜馬がゆく」が大いに読まれた高度経済成長の時代の読者はそうなのだが、司馬の龍馬に共感し、それが歴史だと信じ込んでしまう。歴史学の立場で違う面の龍馬を提示しても信じてはもらえない。それは松浦氏としては悔しいだろうなと思う。
Posted by 南宜堂 at
10:57
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