2010年06月06日
ネット社会の非常識 序章
ネット社会と一口に言うが、私などには思いも及ばない世界がど んどん展開している。メール、ブログ、ミクシー、ツィッ ターなどはなんとなく輪郭くらいはつかめるものの、その実態ともなる と霧の中を手探りで歩くような感覚である。
「ネット社会の非常識」は、そんな世界のモラルのなさを自分の体験に即して語りはじめたものなのだが、身近なことだけに、時に筆が感情に流されることもあり、いささか下品になっていると反省をしている。
毎度おなじみの例の会の事件というのは、投稿の勝手な削除、掲示板 の閉鎖、会の解散、と思ったら再結成と続く非常識を批判したものだ が、実はその前に兆候ともいうべき出来事があった。
それはネットでの批判や攻撃に対するこの主宰者の過敏ともいえる反応である。この主宰者は著述を仕事としており、多くの著書を持っていた。これら著書に対する悪質な中傷や批判について主宰者が反応しはじめたのである。
2ちゃんねるなどを通して、さまざまな事に対する誹謗、個人攻撃が行われているのは時に社会問題化しているので、よく知られていることである。
この主宰者に対する攻撃のことも、何らかのきっかけで主宰者が知ることとなり、犯人探しがはじまったのだ。最初は表立ったことはせずに、主宰者と例の取り巻き二人の間で情報交換をしながら行われていたようなのだ。そのうちに主宰者のホームページにそんなことを匂わす記事が載るようになり、ネット犯罪の記事の切り抜きが掲載されたり、警察に情報を渡しているとか、弁護士に相談しているなどの言い方が目立つようになった。
騒ぎはだんだんとエスカレートして、主宰者が明智小五郎を名乗り、取り巻きがが歴女軍団なるものに扮し、犯人探しがはじまった。そのことを知った周囲の人たちは、ネットでの誹謗中傷は無視するに限ると諌めたのだが、例の取り巻きが次から次へとこんな批判が載ってましたとご注進するせいもあってか、事態はどんどんエスカレートしていった。
ついにどこで聞きつけたのか、特定のある人物、彼は以前その会に所属していたのだが、彼を犯人として名指しするにいたった。当の人物も否定しているにもかかわらず、掲載され多くの人の知るところとなった。主宰者が犯人と断定した以上つじつまを合わせなければいけないと思ったのか、その人物を知る人などに聞きまわり、はっきりと否定されてしまったりした。
そのうち主宰者も間違いに気づいたのか、このことに言及するのをやめてしまった。そして周囲の声にまずいと思ったのか、その部分について得意の削除が行われた。しかし、犯人と名指しされた人物には謝罪も何もない。
これら一連の出来事の中にもいくつかの学ぶべき「ネット社会の非常識」が含まれている。
まず、匿名による誹謗中傷である。この主宰者に対しても、実につまらない批判がネット上で行われた。自分には身に覚えのないことなのだから無視すればいいのであるが、過激に反応することで、却って批判が的を射ていると思われてしまうのである。どうもこれについては、主宰者に誹謗中傷記事のコピーを送りつけ、後ろからあおっていたものがいたようだが、主宰者はこういうことが自分にマイナスに働くとは思わず、却ってありがたいと感謝さえしていたようなのだ。
ネットでの誹謗中傷は匿名で行われるだけに過激で腹立たしいのだが、それを抑える有効な手段というのはなかなかなくて、無視することが最善の方策なのである。
時に、こういうことを夢中になってパソコンに書き込んでいる人間はどんな人なのだろうと思うこともある。オタクということばが真っ先に頭に浮かぶが、案外昼間はまったく別な顔を持つ人間がジキルとハイドのように別な人格に変身しているのかもしれない。
さらには、この主宰者がとったような犯人探しもまた「ネット社会の非常識」につながる。どうやって犯人を特定したのか、個人が調べたってわかるはずはないのだから、あいつではないかとの思い込みからどんどんエスカレートしていって、ついにはあいつに違いないというところにまでいってしまう。これも恐ろしいことだ。犯人に名指しされた人間は、それだけのために人生がめちゃめちゃになることだってあるだろう。実際に主宰者や取り巻きは、実名こそは記さなかったものの、彼を知る人が読めばすぐわかるような職業など書き込んでいるのだ。さらには取り巻きなどは、名指しされた人物に「 あやまりなさい」とまでいっている。
こういったネットでの非常識に対抗していく手段としいうのははたしてあるのだろうか。現在はこれといった妙案があるとは思えない。個人で対抗するしかないのかもしれない。もしかしたら、私たちはネットの中だけでなく、実社会でも同じような危険にさらされているのかもしれないと思うこともある。
「ネット社会の非常識」は、そんな世界のモラルのなさを自分の体験に即して語りはじめたものなのだが、身近なことだけに、時に筆が感情に流されることもあり、いささか下品になっていると反省をしている。
毎度おなじみの例の会の事件というのは、投稿の勝手な削除、掲示板 の閉鎖、会の解散、と思ったら再結成と続く非常識を批判したものだ が、実はその前に兆候ともいうべき出来事があった。
それはネットでの批判や攻撃に対するこの主宰者の過敏ともいえる反応である。この主宰者は著述を仕事としており、多くの著書を持っていた。これら著書に対する悪質な中傷や批判について主宰者が反応しはじめたのである。
2ちゃんねるなどを通して、さまざまな事に対する誹謗、個人攻撃が行われているのは時に社会問題化しているので、よく知られていることである。
この主宰者に対する攻撃のことも、何らかのきっかけで主宰者が知ることとなり、犯人探しがはじまったのだ。最初は表立ったことはせずに、主宰者と例の取り巻き二人の間で情報交換をしながら行われていたようなのだ。そのうちに主宰者のホームページにそんなことを匂わす記事が載るようになり、ネット犯罪の記事の切り抜きが掲載されたり、警察に情報を渡しているとか、弁護士に相談しているなどの言い方が目立つようになった。
騒ぎはだんだんとエスカレートして、主宰者が明智小五郎を名乗り、取り巻きがが歴女軍団なるものに扮し、犯人探しがはじまった。そのことを知った周囲の人たちは、ネットでの誹謗中傷は無視するに限ると諌めたのだが、例の取り巻きが次から次へとこんな批判が載ってましたとご注進するせいもあってか、事態はどんどんエスカレートしていった。
ついにどこで聞きつけたのか、特定のある人物、彼は以前その会に所属していたのだが、彼を犯人として名指しするにいたった。当の人物も否定しているにもかかわらず、掲載され多くの人の知るところとなった。主宰者が犯人と断定した以上つじつまを合わせなければいけないと思ったのか、その人物を知る人などに聞きまわり、はっきりと否定されてしまったりした。
そのうち主宰者も間違いに気づいたのか、このことに言及するのをやめてしまった。そして周囲の声にまずいと思ったのか、その部分について得意の削除が行われた。しかし、犯人と名指しされた人物には謝罪も何もない。
これら一連の出来事の中にもいくつかの学ぶべき「ネット社会の非常識」が含まれている。
まず、匿名による誹謗中傷である。この主宰者に対しても、実につまらない批判がネット上で行われた。自分には身に覚えのないことなのだから無視すればいいのであるが、過激に反応することで、却って批判が的を射ていると思われてしまうのである。どうもこれについては、主宰者に誹謗中傷記事のコピーを送りつけ、後ろからあおっていたものがいたようだが、主宰者はこういうことが自分にマイナスに働くとは思わず、却ってありがたいと感謝さえしていたようなのだ。
ネットでの誹謗中傷は匿名で行われるだけに過激で腹立たしいのだが、それを抑える有効な手段というのはなかなかなくて、無視することが最善の方策なのである。
時に、こういうことを夢中になってパソコンに書き込んでいる人間はどんな人なのだろうと思うこともある。オタクということばが真っ先に頭に浮かぶが、案外昼間はまったく別な顔を持つ人間がジキルとハイドのように別な人格に変身しているのかもしれない。
さらには、この主宰者がとったような犯人探しもまた「ネット社会の非常識」につながる。どうやって犯人を特定したのか、個人が調べたってわかるはずはないのだから、あいつではないかとの思い込みからどんどんエスカレートしていって、ついにはあいつに違いないというところにまでいってしまう。これも恐ろしいことだ。犯人に名指しされた人間は、それだけのために人生がめちゃめちゃになることだってあるだろう。実際に主宰者や取り巻きは、実名こそは記さなかったものの、彼を知る人が読めばすぐわかるような職業など書き込んでいるのだ。さらには取り巻きなどは、名指しされた人物に「 あやまりなさい」とまでいっている。
こういったネットでの非常識に対抗していく手段としいうのははたしてあるのだろうか。現在はこれといった妙案があるとは思えない。個人で対抗するしかないのかもしれない。もしかしたら、私たちはネットの中だけでなく、実社会でも同じような危険にさらされているのかもしれないと思うこともある。