2010年06月18日
ネット社会の非常識 おやめなさい
例の研究会の主宰者が、新聞記事を引用してずいぶんとはしゃいだ発言をしている。
新聞記事というのは、「岩手日報」という新聞に掲載された「小沢氏の去就 「使命」果たしたのでは」という宮沢徳雄という署名のある論説記事のことで、「すごい論説、小沢さんおやめなさい」と主宰者はテンションを上げている。
当然のことながら、小沢氏とは岩手県選出の民主党衆議院議員小沢一郎氏のことであり、主宰者によれば「小沢サンの地元、岩手日報というところに重みがある。岩手日報、見事ですね。」なのである。
私はこの論説、見事とも何とも思えなかったので、まずそのことから記す。宮沢氏の論説をそのまま引用することも考えたのだが、煩雑になるので、さわりだけを引用する。全文は「岩手日報」のホームページもしくは、主宰者のホームページで閲覧できるので、興味のある方はご覧下さい。
「 昨年夏の衆院選で「政権交代」を果たした原動力が小沢氏であることは周知の事実。「参院選に勝ち、政権安定と改革実行が可能になる」-とは本人の言葉だが、世論は鳩山、小沢両氏につきまとった「政治とカネ」に嫌悪感を抱いているのが明らかだ。
どうだろう。この辺で鳩山前首相と共に政界から身をひくことを考えてみては。
かつて評論家江藤淳氏が陶淵明の詩「帰去来辞」を引用して小沢氏に「帰りなん、いざ。田園まさに蕪(あ)れんとす。なんぞ帰らざる」と帰郷を勧めたことがある。
すでに十分に「使命」を果たしたのではないか。」
世論は政治とカネに嫌悪感を抱いているといわれるが、はたしてそうなのか。確かに岩手日報はじめおおかたのマスコミの世論調査では、説明責任が果たされていないという結果が出ている。しかし、小沢氏への疑惑は「だろう』的な判断でなされる曖昧なものだとの指摘もある。検察の調べでは不起訴ということにもなっているのだ。
私はマスコミの報道というのは「あいつは悪だ」的な先入観からなされる恣意的なものではないかと常々思っている。確たる証拠もなく書き立てること自体が、マスコミを使ったペンの暴力ではないかとさえ思っているのだ。
かの主宰者も、かつて確たる証拠もないのにある人物を犯人扱いしたことがあることは前に述べた。この主宰者もまたペンの力という暴力装置を持っているのだ。しかも、この犯人扱いされた人物は小沢氏のように権力を持っている人間ではない。
「どうだろう。この辺で鳩山前首相と共に政界から身をひくことを考えてみては。」私はこういう世論の力を背景になされるマスコミ人の思い上がりというものが大嫌いだ。主語はないのだ。あえていえば、世論を代表する筆者ということになるが、世論という盾の後ろに隠れて鉄砲を撃っているようなもので、世論が変われば急に小沢氏をちやほやしたりするのがマスコミ人なのである。
この主宰者もかつてはマスコミ人であった。その根性はいまだに抜けきれていないようで、書くことも為すことも時流に迎合したものでしかない。そういえば、かつて彼はこんな風に言っていたことがある。「自分は作家とか学者とかいうよりも、ジャーナリストなのだから、主義や主張を要求されても困る」と。
本論はここからだ。主宰者は「政治とカネ」の問題で世間を騒がせている小沢一郎氏に対し「おやめなさい」と忠告する新聞記事に拍手喝采を送っているのだが、彼もまた自らが主宰する会の「政治とカネ」の問題で批判を受けているのである。そしていまだに主宰者の座に君臨していて、皆さん楽しくやりましょうなどとうそぶいているのである。
この項つづく
新聞記事というのは、「岩手日報」という新聞に掲載された「小沢氏の去就 「使命」果たしたのでは」という宮沢徳雄という署名のある論説記事のことで、「すごい論説、小沢さんおやめなさい」と主宰者はテンションを上げている。
当然のことながら、小沢氏とは岩手県選出の民主党衆議院議員小沢一郎氏のことであり、主宰者によれば「小沢サンの地元、岩手日報というところに重みがある。岩手日報、見事ですね。」なのである。
私はこの論説、見事とも何とも思えなかったので、まずそのことから記す。宮沢氏の論説をそのまま引用することも考えたのだが、煩雑になるので、さわりだけを引用する。全文は「岩手日報」のホームページもしくは、主宰者のホームページで閲覧できるので、興味のある方はご覧下さい。
「 昨年夏の衆院選で「政権交代」を果たした原動力が小沢氏であることは周知の事実。「参院選に勝ち、政権安定と改革実行が可能になる」-とは本人の言葉だが、世論は鳩山、小沢両氏につきまとった「政治とカネ」に嫌悪感を抱いているのが明らかだ。
どうだろう。この辺で鳩山前首相と共に政界から身をひくことを考えてみては。
かつて評論家江藤淳氏が陶淵明の詩「帰去来辞」を引用して小沢氏に「帰りなん、いざ。田園まさに蕪(あ)れんとす。なんぞ帰らざる」と帰郷を勧めたことがある。
すでに十分に「使命」を果たしたのではないか。」
世論は政治とカネに嫌悪感を抱いているといわれるが、はたしてそうなのか。確かに岩手日報はじめおおかたのマスコミの世論調査では、説明責任が果たされていないという結果が出ている。しかし、小沢氏への疑惑は「だろう』的な判断でなされる曖昧なものだとの指摘もある。検察の調べでは不起訴ということにもなっているのだ。
私はマスコミの報道というのは「あいつは悪だ」的な先入観からなされる恣意的なものではないかと常々思っている。確たる証拠もなく書き立てること自体が、マスコミを使ったペンの暴力ではないかとさえ思っているのだ。
かの主宰者も、かつて確たる証拠もないのにある人物を犯人扱いしたことがあることは前に述べた。この主宰者もまたペンの力という暴力装置を持っているのだ。しかも、この犯人扱いされた人物は小沢氏のように権力を持っている人間ではない。
「どうだろう。この辺で鳩山前首相と共に政界から身をひくことを考えてみては。」私はこういう世論の力を背景になされるマスコミ人の思い上がりというものが大嫌いだ。主語はないのだ。あえていえば、世論を代表する筆者ということになるが、世論という盾の後ろに隠れて鉄砲を撃っているようなもので、世論が変われば急に小沢氏をちやほやしたりするのがマスコミ人なのである。
この主宰者もかつてはマスコミ人であった。その根性はいまだに抜けきれていないようで、書くことも為すことも時流に迎合したものでしかない。そういえば、かつて彼はこんな風に言っていたことがある。「自分は作家とか学者とかいうよりも、ジャーナリストなのだから、主義や主張を要求されても困る」と。
本論はここからだ。主宰者は「政治とカネ」の問題で世間を騒がせている小沢一郎氏に対し「おやめなさい」と忠告する新聞記事に拍手喝采を送っているのだが、彼もまた自らが主宰する会の「政治とカネ」の問題で批判を受けているのである。そしていまだに主宰者の座に君臨していて、皆さん楽しくやりましょうなどとうそぶいているのである。
この項つづく
2010年06月18日
龍馬の幽霊
坂崎紫瀾の小説「汗血千里駒」が高知の土陽新聞に連載されるのは、明治16年、さらに単行本となって多くの読者を得るのは、2年後の明治18年のことである。これをもって坂本龍馬伝の嚆矢とされているわけであるが、司馬遼太郎は「歴史と小説」と題したエッセィ集の中で、龍馬復活についての興味深い話を紹介している。
時は明治37年2月、日露開戦の前夜のことである。皇后(昭憲皇太后)の夢に、白装束の武士があらわれた。彼は自分は坂本龍馬であると名乗り、「魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言って消えたのだという。この話は東京中の新聞に載り、世間は一時その話でもちきりになった。
司馬はこの夢の話について、「竜馬の性格からみて夢枕に立つような趣味はなさそうだが」と断ったあとで、「意地わるくみれば、当時、そのころの流行語である「恐露病」にかかっていた国民の士気をこういうかたちで一変させようとしたのではないかと思われるし、さらに意地悪くみれば、(中略)土佐株をあげるために宮中関係者のあいだでこういう話をつくったのではないかと疑えば疑えぬことはない。」と、話は眉唾物ではないかと一蹴している。
いずれにせよ、このころから坂本龍馬は人々の口の端に上るようになったようである。そういう意味では、宮中にいた土佐人たちのねらいは当ったわけである。
さらに大正時代に入ると、大正デモクラシーの精神から、例の「船中八策」が立憲主義の先駆として学問的に評価されるようになると、飛鳥井はいう。
「ここにデモクラシー歴史観、平和革命論者龍馬の像が成立した。このイメージは学問的スタイルをとっていたし、この過程で、龍馬の思考を伝えるとされる「藩論」というパンフレットが発見されたこともあって、好くも悪しくも、戦後まで引きつがれてきているのである。」
時は明治37年2月、日露開戦の前夜のことである。皇后(昭憲皇太后)の夢に、白装束の武士があらわれた。彼は自分は坂本龍馬であると名乗り、「魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言って消えたのだという。この話は東京中の新聞に載り、世間は一時その話でもちきりになった。
司馬はこの夢の話について、「竜馬の性格からみて夢枕に立つような趣味はなさそうだが」と断ったあとで、「意地わるくみれば、当時、そのころの流行語である「恐露病」にかかっていた国民の士気をこういうかたちで一変させようとしたのではないかと思われるし、さらに意地悪くみれば、(中略)土佐株をあげるために宮中関係者のあいだでこういう話をつくったのではないかと疑えば疑えぬことはない。」と、話は眉唾物ではないかと一蹴している。
いずれにせよ、このころから坂本龍馬は人々の口の端に上るようになったようである。そういう意味では、宮中にいた土佐人たちのねらいは当ったわけである。
さらに大正時代に入ると、大正デモクラシーの精神から、例の「船中八策」が立憲主義の先駆として学問的に評価されるようになると、飛鳥井はいう。
「ここにデモクラシー歴史観、平和革命論者龍馬の像が成立した。このイメージは学問的スタイルをとっていたし、この過程で、龍馬の思考を伝えるとされる「藩論」というパンフレットが発見されたこともあって、好くも悪しくも、戦後まで引きつがれてきているのである。」