2010年06月26日
参政吉田東洋への反発
龍馬が2度目の剣術修業を終えて、江戸から土佐に帰国したのは安政5年9月のことであった。半平太はその前年、祖母重病の知らせに一足早く帰国していた。
世は安政の大獄のまっただ中である。土佐では藩主山内容堂が隠居を迫られていた。代って藩政の表舞台に現れてきたのが吉田東洋であった。吉田は容堂の信任が厚かったが、酒の席で山内家の旗本を殴ったとして謹慎処分を受けていたものであった。
参政吉田東洋の復権はいわば容堂に代って藩政を切り盛りする役を担わされてのものであった。このとき吉田が行ったのは幕府対策だけではなかった。思い切った藩政改革にも手を付けたのである。
彼が行ったのは、藩の産物を藩政府のもとに集め、販売も藩の手で行うというものであった。これによって藩経済は潤ったが、庄屋を中心とした農民層には大きな痛手となり、後々彼らの怨みを買うことになるのである。
万延元年3月3日、大老井伊直弼は桜田門外で暗殺される。この報を聞いて、容堂は狂喜したという。容堂は自分を隠居に追い込んだ井伊直弼は憎かったが、かといって井伊を殺した尊王攘夷の浪士たちに共感したわけではなかった。山内家の祖一豊が、掛川城主から土佐一国を与えられるまでになったことに対する徳川家康への恩顧というものを決して忘れていなかった。
さらに頭の回転の早い容堂は、志士の動きが自分たち大名の地位を脅かすものとして許すことができなかったようである。
井伊直弼暗殺の報が土佐にもたらされたのは3月19日のことであった。これを機に藩内の尊王攘夷の動きは一挙に高まる。龍馬でさえ「是、臣士の分を尽せるのみ」と決意を述べたという。
この動きの中心となったのは武市半平太であった。武市の道場には土佐国内各地から尊王攘夷の志を持つものが集まりはじめた。半平太自身も長州から九州へ、そして国内と剣術修業の名目で同志を募る旅を行ったのである。
半平太の批判は幕政に、そしてそれに追随する吉田東洋に向けられた。井伊直弼の暗殺後でも容堂の謹慎は解かれていなかった。それに対し何の手も打てない吉田に憤りを感じていったのだ。さらには先に述べたような庄屋層の吉田への反発も半平太を後押しした。半平太は豪農郷士であったのだ。
世は安政の大獄のまっただ中である。土佐では藩主山内容堂が隠居を迫られていた。代って藩政の表舞台に現れてきたのが吉田東洋であった。吉田は容堂の信任が厚かったが、酒の席で山内家の旗本を殴ったとして謹慎処分を受けていたものであった。
参政吉田東洋の復権はいわば容堂に代って藩政を切り盛りする役を担わされてのものであった。このとき吉田が行ったのは幕府対策だけではなかった。思い切った藩政改革にも手を付けたのである。
彼が行ったのは、藩の産物を藩政府のもとに集め、販売も藩の手で行うというものであった。これによって藩経済は潤ったが、庄屋を中心とした農民層には大きな痛手となり、後々彼らの怨みを買うことになるのである。
万延元年3月3日、大老井伊直弼は桜田門外で暗殺される。この報を聞いて、容堂は狂喜したという。容堂は自分を隠居に追い込んだ井伊直弼は憎かったが、かといって井伊を殺した尊王攘夷の浪士たちに共感したわけではなかった。山内家の祖一豊が、掛川城主から土佐一国を与えられるまでになったことに対する徳川家康への恩顧というものを決して忘れていなかった。
さらに頭の回転の早い容堂は、志士の動きが自分たち大名の地位を脅かすものとして許すことができなかったようである。
井伊直弼暗殺の報が土佐にもたらされたのは3月19日のことであった。これを機に藩内の尊王攘夷の動きは一挙に高まる。龍馬でさえ「是、臣士の分を尽せるのみ」と決意を述べたという。
この動きの中心となったのは武市半平太であった。武市の道場には土佐国内各地から尊王攘夷の志を持つものが集まりはじめた。半平太自身も長州から九州へ、そして国内と剣術修業の名目で同志を募る旅を行ったのである。
半平太の批判は幕政に、そしてそれに追随する吉田東洋に向けられた。井伊直弼の暗殺後でも容堂の謹慎は解かれていなかった。それに対し何の手も打てない吉田に憤りを感じていったのだ。さらには先に述べたような庄屋層の吉田への反発も半平太を後押しした。半平太は豪農郷士であったのだ。