2010年06月29日
ネット社会の非常識 雉も鳴かずば
私の住む信州には「雉も鳴かずば撃たれまい」という悲しい民話が伝わっている。信州の山中を流れる犀川に久米路(くめじ)橋という橋が架かっている。この橋にまつわる話である。
病気になった娘に食べさせようと小豆を盗んだ父親、元気になった娘はあかまんま(赤飯)を食べたと自慢げに友だちに話す。それを伝え聞いた村の人々は貧しい男があかまんまなど食べさせられるわけがないと怪しみ、小豆を盗んだことを白状させる。父親は久米路橋の建設のための人柱とされるのだが、それから娘は一言も口をきかなくなってしまった。
それから月日が流れ、娘は相変わらず一言も話すことはなかった。ある日、娘は雉が鉄砲で撃たれるのを目撃する。一声鳴いた雉をめがけ、猟師が鉄砲を放ったのだ。娘は「雉も鳴かずば撃たれまい」と一言言うとまただまってしまったという。
「沈黙は金」という諺もある。余計なことは言わず、主宰者や取り巻きがやるようにやらせていれば、それなりに楽しくやっていけたのかも知れないということを考えなかったわけではない。
私がここで一人で騒いでみたところで、主宰者や取り巻きは多少は迷惑するだろうが、それ以上に楽しい会にしていこうとしている新会員の皆さんには「腹黒いカラス」としか写らないのかもしれない。第一私には何の利益にもならないのだ。それどころか、黒い鳩だの迷惑メールだの、はては警察に相談するだのと、あたかも私こそが悪人だということを書きたてられると、気の小さい私はそれだけで縮み上がってしまうこともあるのだ。
だが、自分が知りうる小さな世間で、こんな理不尽なことがまかり通る、それを黙って見過ごしていていいのだろうかとも思うのである。理不尽なことについては、「ネット社会の非常識」の記事を読んでください。
かつて高橋和己という作家は、癌に冒された体で「義に近い人間関係を」と言った。人と人は義という関係の中で交わるべきなのだ。それでこそ人は人を信頼でき、尊敬できるのだ。義を失った関係は野合でしかない。
慎み深い、人が人を思いやれるような関係を築きたいから、やはり「おかしいのではないか」ということは言っていかなければならない。
写真は現在の久米路橋
病気になった娘に食べさせようと小豆を盗んだ父親、元気になった娘はあかまんま(赤飯)を食べたと自慢げに友だちに話す。それを伝え聞いた村の人々は貧しい男があかまんまなど食べさせられるわけがないと怪しみ、小豆を盗んだことを白状させる。父親は久米路橋の建設のための人柱とされるのだが、それから娘は一言も口をきかなくなってしまった。
それから月日が流れ、娘は相変わらず一言も話すことはなかった。ある日、娘は雉が鉄砲で撃たれるのを目撃する。一声鳴いた雉をめがけ、猟師が鉄砲を放ったのだ。娘は「雉も鳴かずば撃たれまい」と一言言うとまただまってしまったという。
「沈黙は金」という諺もある。余計なことは言わず、主宰者や取り巻きがやるようにやらせていれば、それなりに楽しくやっていけたのかも知れないということを考えなかったわけではない。
私がここで一人で騒いでみたところで、主宰者や取り巻きは多少は迷惑するだろうが、それ以上に楽しい会にしていこうとしている新会員の皆さんには「腹黒いカラス」としか写らないのかもしれない。第一私には何の利益にもならないのだ。それどころか、黒い鳩だの迷惑メールだの、はては警察に相談するだのと、あたかも私こそが悪人だということを書きたてられると、気の小さい私はそれだけで縮み上がってしまうこともあるのだ。
だが、自分が知りうる小さな世間で、こんな理不尽なことがまかり通る、それを黙って見過ごしていていいのだろうかとも思うのである。理不尽なことについては、「ネット社会の非常識」の記事を読んでください。
かつて高橋和己という作家は、癌に冒された体で「義に近い人間関係を」と言った。人と人は義という関係の中で交わるべきなのだ。それでこそ人は人を信頼でき、尊敬できるのだ。義を失った関係は野合でしかない。
慎み深い、人が人を思いやれるような関係を築きたいから、やはり「おかしいのではないか」ということは言っていかなければならない。
写真は現在の久米路橋