2010年06月08日
ネット社会の非常識 他山の石
《THE JOURNAL》では、主宰の高野孟の意向でコメント欄を自由投稿の形式にしていましたが、最近のアクセス数の増加に比例して、荒らし行為やなりすましが頻発するようになってきました。ここ数日はサーバーの負荷も増加し、サイトの運営そのものまで影響が出るような状況になってきました。
そこで、大変申し訳ございませんが、コメント欄は承認制に変更し、編集部が許可したコメントだけを公開することになりました。もちろん、記事に対する異論や反論は自由ですので、それだけの理由で公開しないということはありません。
これは最近《THE JOURNAL》というブログサイトが発表したコメントの承認制についての告知である。小さいながら、私の「あれこれ南宜堂」も同じ理由で同じ方針をとっている。しかしこのことは常に両刃の剣のような危険性もはらんでいることを自覚していなければならない。
私が常々ここで批判している、某研究会のサイトも同じようなことをしたのだ。つまり、会のサイトの掲示板の投稿を、主宰者の判断で主宰者に都合の悪いものを削除したというものである。私は以前このことを、掲示板は会員の共有物であるという理由で批判した。
しかし、主宰者はこれは「荒らし行為やなりすまし」行為であり、はては個人攻撃が行われているとして削除したのだということを言っているらしい。
そうではないのだと反論してみたところで、それぞれがもつ荒らしか批判かの判断基準が違う以上は、これはどこまでいっても水掛け論に終わってしまう。この共通の判断基準というのを作り上げることが、「ネット社会の非常識」をなくしていくためのひとつの方法なのだろうが、これがなかなか困難な課題なのだ。
ただ、この主宰者がその後どんなことをしたのかということを検証してみるのは「他山の石」として、私に多くの教訓を残してくれた。
主宰者はこの研究会をいったん解散して、批判者を排除した上で新たに同名の会を発足させた。そして、「思想信条の異なる方の入会はお断りします。」という会則を設けたのである。つまりこれが主宰者にとっての判断基準というわけだ。
ここでいう「思想・信条」の使い方はどうも十分に熟しているとは思えないのだが、おそらく主宰者が言いたかったことは、「私の考えに反対する人は入ってきていただいては困る」ということだろう。「思想信条」は最初「思想心情」となっていたくらいであるから。むしろ「思想心情」とした方が主宰者の意志は伝わりやすかったのかもしれない。
新たにできた研究会にどのくらいの会員がいるのかは知らないが、おそらく誰もがこの会則などは気にもかけていないと思う。和気あいあいとやっている分には会則など関係ないのだ。
しかし、時に主宰者やその取り巻きのやり方がおかしいと思ったとき、一言でもそれに異を唱えれば、その人はその時点で会則違反で退会処分となる。そういう仕組みがつくってあるのだ。
そこで、大変申し訳ございませんが、コメント欄は承認制に変更し、編集部が許可したコメントだけを公開することになりました。もちろん、記事に対する異論や反論は自由ですので、それだけの理由で公開しないということはありません。
これは最近《THE JOURNAL》というブログサイトが発表したコメントの承認制についての告知である。小さいながら、私の「あれこれ南宜堂」も同じ理由で同じ方針をとっている。しかしこのことは常に両刃の剣のような危険性もはらんでいることを自覚していなければならない。
私が常々ここで批判している、某研究会のサイトも同じようなことをしたのだ。つまり、会のサイトの掲示板の投稿を、主宰者の判断で主宰者に都合の悪いものを削除したというものである。私は以前このことを、掲示板は会員の共有物であるという理由で批判した。
しかし、主宰者はこれは「荒らし行為やなりすまし」行為であり、はては個人攻撃が行われているとして削除したのだということを言っているらしい。
そうではないのだと反論してみたところで、それぞれがもつ荒らしか批判かの判断基準が違う以上は、これはどこまでいっても水掛け論に終わってしまう。この共通の判断基準というのを作り上げることが、「ネット社会の非常識」をなくしていくためのひとつの方法なのだろうが、これがなかなか困難な課題なのだ。
ただ、この主宰者がその後どんなことをしたのかということを検証してみるのは「他山の石」として、私に多くの教訓を残してくれた。
主宰者はこの研究会をいったん解散して、批判者を排除した上で新たに同名の会を発足させた。そして、「思想信条の異なる方の入会はお断りします。」という会則を設けたのである。つまりこれが主宰者にとっての判断基準というわけだ。
ここでいう「思想・信条」の使い方はどうも十分に熟しているとは思えないのだが、おそらく主宰者が言いたかったことは、「私の考えに反対する人は入ってきていただいては困る」ということだろう。「思想信条」は最初「思想心情」となっていたくらいであるから。むしろ「思想心情」とした方が主宰者の意志は伝わりやすかったのかもしれない。
新たにできた研究会にどのくらいの会員がいるのかは知らないが、おそらく誰もがこの会則などは気にもかけていないと思う。和気あいあいとやっている分には会則など関係ないのだ。
しかし、時に主宰者やその取り巻きのやり方がおかしいと思ったとき、一言でもそれに異を唱えれば、その人はその時点で会則違反で退会処分となる。そういう仕組みがつくってあるのだ。