2010年06月14日

よみがえった龍馬

 飛鳥井雅道によれば、坂本龍馬はよみがえった英雄なのだという。それも時代を経ながら何度もよみがえったのであると。
 明治維新の直後、龍馬のことは「一時ほとんど忘れられかけたことすらあった。」大政奉還という歴史の転回点の立役者でありながら、龍馬はそのひと月後に暗殺されてしまう。その後の政局は、龍馬が思い描いたようには進まず、「王政復古」のクーデターにより、主導権を薩摩や長州が握る。その過程で、大政奉還を仕掛けた土佐は脇によけられてしまうのである。
 土佐郷士にしかすぎなかった龍馬は、ここで維新の表舞台からは忘れられた存在になってしまう。そんな龍馬を明治の世によみがえらせたのは、土佐で自由民権を闘ったものたちであった。
 明治16年、高知の「土陽新聞」に坂崎紫瀾の小説「天下無双人傑・海南第一伝奇・汗血千里駒」が連載された。その後単行本となって多くの読者を獲得するのである。
 坂崎紫瀾については、わが信州との関係で以前に書いたことがある。紫瀾の紹介を兼ねて引用してみる。

 明治9年、信州松本裁判所に一人の判事が赴任してきた。坂崎斌という。難しい名前だが、さかんと読ませた。それがなぜか翌々年には辞表を叩き付けて辞めてしまう。そのとき判事の辞令で鼻をかんで窓の外に投げ捨てたというエピソードが残っている。
 坂崎はもともとが征韓論者で、西南戦争の影響もあって、判事を続けにくくなったのではないかという推測もある。判事をやめた坂崎は松本新聞に編集長として迎えられた。
 松本新聞は創刊時は信飛新聞といっていた。松本に県庁があった筑摩県が長野県に編入されたため、名称を松本新聞に改めたものである。坂崎が入社する前から、松本新聞は自由民権運動の主張を強めていた。坂崎が入ることで、その主張は一層強まった。
 坂崎は松本新聞紙上で自由民権の論陣を張り、松本周辺で政談演説会を開催した。坂崎の演説のようすについて、中島博昭氏は次のように描写している。「(松沢)求策よりわずか二歳年長でしかない若さにそぐわない型破りのユーモアあふれる、ときにはふざけているとしか思えないような演説をするこの男に、はじめて会った求策は今迄会った人々には感じたことのない異様な魅力を感じた。きれいなあご髭をひねりながら無雑作に面白いことを二つ三つ喋るので腹をかかえて笑うが、話が終ってみると人間の生き方に触れた貴重な教訓が与えられていることに気づく。そしてその奥にこの啓蒙家の民衆に対する暖かい愛情ときびしい姿勢を感じることができた。」(中島博昭「鋤鍬の民権」より)
 坂崎斌はここに登場した松沢求策とともに、信州の自由民権運動の先駆的な人物として知られている。それもそのはずで、彼は土佐の出身で板垣退助が興した愛国公党のメンバーであった。
 明治11年、坂崎や松沢は浅間温泉に猶興義塾という学校を設立する。民権活動家の養成が目的であった。しかし時代が早すぎたのか、この学校には生徒が集らず、やがて閉校に追い込まれる。
 その後坂崎は啓蒙のために松本新聞の日刊化と販路の拡大を図るが、これにも失敗してやがて彼は松本を去る。  

Posted by 南宜堂 at 16:53Comments(0)幕末・維新