2010年09月14日
日々是好日 玉蟲左太夫
玉蟲左太夫の「航米日録」の現代語訳が出版された。題して「仙台藩士幕末世界一周 玉蟲左太夫外遊録」、仙台の荒蝦夷の出版で、定価は税込み2205円。 玉蟲左太夫については、この欄でも何回が書かせていただいた。150年前の1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため軍艦ポーハタンでアメリカに渡った使節団の一員として参加し、その記録を「航米日録」として克明に書き残した。このとき、玉蟲の資格は正使新見豊前守の従者という資格であった。同時期にアメリカに渡った咸臨丸の提督木村摂津守の従者として参加した福沢諭吉と同じ程度の位であったのだろう。
慶応4年(1868)に発生した戊辰戦争では、仙台藩軍務局副統取として会津救済のための奥羽越列藩同盟の結成に尽力したが、仙台藩の降伏のためその責任を責められ、明治2年に切腹を命ぜられたのである。
「私は、ポーハタンに乗った小栗、咸臨丸に乗った勝と福沢に、近代国家の招来に果した共通のものを感じている。飛躍するようだが、メイフラワー号で新大陸にわたったピルグリム・ファーザーズと似たような色合いを感じたりするのである。」
このように書いているのは司馬遼太郎だが、明治の世界を見ることなく刑死した玉蟲左太夫にはそういう栄誉を冠してはもらえなかった。小栗も明治までは生きられなかったが、幕末時にすでに幕府の要職に就いていた小栗は後世においても、その業績を評価されたのである。
玉蟲らは米国の船に乗り、米国人と生活を共にしつつアメリカを目指したのであるが、その旺盛な好奇心と正確な観察眼で西洋の科学技術、風俗、人情を克明に記録した。科学技術については無条件に学ぶべきものとして賞賛しているが、米国人の礼儀のなさやモラルの欠如には遠慮なく批判している。
帰国後玉蟲は、仙台藩校養賢堂の指南統取の地位に就く。藩の時代を担う若者たちの教育に尽くす傍ら、藩の産業振興にも力を尽くしている。しかし、まもなく勃発した戊辰戦争により、そんな玉蟲の志も挫折を余儀なくされるのである。
戊辰戦争において、玉蟲はどんな働きをしたのか。仙台藩自身は抗戦路線を取っていたわけではない。他の奥羽諸藩に呼びかけて、会津に対する寛典を官軍に願い出ている。玉蟲はそのために東奔西走しているのである。しかし、情勢は彼の思うようには進まなかった。やがて奥羽各藩は薩長への対決姿勢を強めるようになり、戦争へと進んでいくのである。
玉蟲が戦争を望んでいたとは思えない。この戦争をどのようにとらえていたのか、そして戦争後の奥羽のことについて思いは及んでいたのであろうか。「航米日録」の中にそれを推理する材料はあるのだろうか。興味は尽きないのである。
慶応4年(1868)に発生した戊辰戦争では、仙台藩軍務局副統取として会津救済のための奥羽越列藩同盟の結成に尽力したが、仙台藩の降伏のためその責任を責められ、明治2年に切腹を命ぜられたのである。
「私は、ポーハタンに乗った小栗、咸臨丸に乗った勝と福沢に、近代国家の招来に果した共通のものを感じている。飛躍するようだが、メイフラワー号で新大陸にわたったピルグリム・ファーザーズと似たような色合いを感じたりするのである。」
このように書いているのは司馬遼太郎だが、明治の世界を見ることなく刑死した玉蟲左太夫にはそういう栄誉を冠してはもらえなかった。小栗も明治までは生きられなかったが、幕末時にすでに幕府の要職に就いていた小栗は後世においても、その業績を評価されたのである。
玉蟲らは米国の船に乗り、米国人と生活を共にしつつアメリカを目指したのであるが、その旺盛な好奇心と正確な観察眼で西洋の科学技術、風俗、人情を克明に記録した。科学技術については無条件に学ぶべきものとして賞賛しているが、米国人の礼儀のなさやモラルの欠如には遠慮なく批判している。
帰国後玉蟲は、仙台藩校養賢堂の指南統取の地位に就く。藩の時代を担う若者たちの教育に尽くす傍ら、藩の産業振興にも力を尽くしている。しかし、まもなく勃発した戊辰戦争により、そんな玉蟲の志も挫折を余儀なくされるのである。
戊辰戦争において、玉蟲はどんな働きをしたのか。仙台藩自身は抗戦路線を取っていたわけではない。他の奥羽諸藩に呼びかけて、会津に対する寛典を官軍に願い出ている。玉蟲はそのために東奔西走しているのである。しかし、情勢は彼の思うようには進まなかった。やがて奥羽各藩は薩長への対決姿勢を強めるようになり、戦争へと進んでいくのである。
玉蟲が戦争を望んでいたとは思えない。この戦争をどのようにとらえていたのか、そして戦争後の奥羽のことについて思いは及んでいたのであろうか。「航米日録」の中にそれを推理する材料はあるのだろうか。興味は尽きないのである。
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21:08
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2010年09月12日
風雲烏城 あらすじ
「烏の森風雲録」の続編のつもりが、いつのまにかおかしな時代小説気取りになり、恥をさらしております。というわけで、このへんでいったん終止符を打ち、もっと修業を積んだところで続編を書くべきという結論となりました。とりあえず、少し筆者の意図のようなものを記しておきます。
喉元過ぎれば熱さも忘れる。時間というのはありがたいもので、どんな嫌なことがあってもだんだんとそれは思い出になっていきます。戦争の記憶もそうです。小田実が亡くなり、井上ひさしが亡くなり、戦争は悪だということを声高に叫ぶ人がどんどんといなくなっていきます。過去のことは過去のこと、しかし過ちはゆるせない、そういう思いというのは意識して持続しない限り思い出となっていくようです。
さて、この物語は猿飛佐助の誕生譚です。種本は立川文庫、立川文庫のことを語りはじめたらそれは小説のように興味深い話がたくさんあるのですが、それはまたの機会に。
鳥居峠の山の中に鷲塚佐太夫という郷士が住んでおりました。佐太夫に二人の子があり、姉は小夜弟は佐助といいました。この佐太夫、立川文庫では信州川中島の領主森長可の家臣ということになっておりますが、ここでは奥州烏城主榎本釜揚の元家臣としてあります。
佐太夫は諸国の浪々中の身でありましたが、榎本家の家老梶山主善に見込まれ、烏城に仕官します。ところがこの烏城にお家騒動が持ち上がるのです。
事の発端は奥方が若くして亡くなったことです。後には幼い姫が残されました。しばらくして釜揚のもとに新しい奥方が輿入れしてきます。西国筋の大名の世話で、豪商橋本屋の出戻り娘でありました。名を朱里とでもしましょうか。京のさる公家の養女となって輿入れしたのです。しかも朱里には連れ子までおりました。女の子でありました。
この朱里の方、政事向きのことに口を出すのが好きで、何かといえば出しゃばってあれこれ家臣に命令を下すのです。思いあまって釜揚に訴え出ても、「朱里の言うとおりにせい」というばかりで取り合ってもくれません。そのうち朱里の方の出しゃばりはますます激しくなり、それを快く言わない家臣は左遷されるか、いつのまにか追放されてしまうのでした。
そのうちに恐ろしいことが発覚しました。釜揚の実の娘である幼い姫を亡きものとして、自分の娘に養子を取って烏城を継がせようという朱里の方の企みでした。それを家老梶山に知らせたのは、朱里の方が寵愛する若い武士でした。自分が姫を抹殺する役目を命ぜられ、恐ろしくなって駆け込んできたのです。
この朱里という女、烏城に来る前はどんな人生を歩んできたのか。一度嫁いではみたものの、いろいろと不幸が重なり、いたたまれず実家に帰ってきたものでしょう。実家で周りの白い目に耐えながら娘と日々を送っていましたが、たまたま世話をする人があり、奥州に嫁ぐことになりました。年の離れた殿ですが、贅沢はいえません。また、自分が望まれたわけではなく、相手は橋本屋の財力と政治力が狙いなのはわかっています。まわりの白眼視から早く逃れたかったのです。
嫁いだ朱里ですが、もう失敗はゆるされません。何とかここで幸せを掴まねばならないのです。そのためには、釜揚の実子を亡きものにして、自分の子に烏城を継がせるのがいちばんと考えたのでしょう。
家老梶山は何とかこのことを釜揚に訴え、朱里を烏城から追放しようとしますが、薬を使って洗脳されている釜揚には何も言っても無駄ではないかと危惧します。とりあえずは、姫だけでも安全な場所に移したい。
相談を受けた佐太夫は、自分たち夫婦が姫を連れて烏城を出奔し、安全な場所にかくまうことを申し出ます。こうして、佐太夫は妻とともに故郷信州の鳥居峠に逃れ、姫を自分たちの娘小夜として育てます。そのうち、二人には男の子が生まれ、佐助と名付けられます。
一方烏城では、梶山がなんとか朱里の悪事を暴こうとしますが、信頼できる部下が次々と朱里により追放され孤立してしまいます。そんな焦燥の日々の果て、梶山は心労のため病に伏し、やがて帰らぬ人となってしまうのです。
知らせを受けた佐太夫ですが、自分一人の力ではなんともすることができません。
喉元過ぎれば熱さも忘れる。時間というのはありがたいもので、どんな嫌なことがあってもだんだんとそれは思い出になっていきます。戦争の記憶もそうです。小田実が亡くなり、井上ひさしが亡くなり、戦争は悪だということを声高に叫ぶ人がどんどんといなくなっていきます。過去のことは過去のこと、しかし過ちはゆるせない、そういう思いというのは意識して持続しない限り思い出となっていくようです。
さて、この物語は猿飛佐助の誕生譚です。種本は立川文庫、立川文庫のことを語りはじめたらそれは小説のように興味深い話がたくさんあるのですが、それはまたの機会に。
鳥居峠の山の中に鷲塚佐太夫という郷士が住んでおりました。佐太夫に二人の子があり、姉は小夜弟は佐助といいました。この佐太夫、立川文庫では信州川中島の領主森長可の家臣ということになっておりますが、ここでは奥州烏城主榎本釜揚の元家臣としてあります。
佐太夫は諸国の浪々中の身でありましたが、榎本家の家老梶山主善に見込まれ、烏城に仕官します。ところがこの烏城にお家騒動が持ち上がるのです。
事の発端は奥方が若くして亡くなったことです。後には幼い姫が残されました。しばらくして釜揚のもとに新しい奥方が輿入れしてきます。西国筋の大名の世話で、豪商橋本屋の出戻り娘でありました。名を朱里とでもしましょうか。京のさる公家の養女となって輿入れしたのです。しかも朱里には連れ子までおりました。女の子でありました。
この朱里の方、政事向きのことに口を出すのが好きで、何かといえば出しゃばってあれこれ家臣に命令を下すのです。思いあまって釜揚に訴え出ても、「朱里の言うとおりにせい」というばかりで取り合ってもくれません。そのうち朱里の方の出しゃばりはますます激しくなり、それを快く言わない家臣は左遷されるか、いつのまにか追放されてしまうのでした。
そのうちに恐ろしいことが発覚しました。釜揚の実の娘である幼い姫を亡きものとして、自分の娘に養子を取って烏城を継がせようという朱里の方の企みでした。それを家老梶山に知らせたのは、朱里の方が寵愛する若い武士でした。自分が姫を抹殺する役目を命ぜられ、恐ろしくなって駆け込んできたのです。
この朱里という女、烏城に来る前はどんな人生を歩んできたのか。一度嫁いではみたものの、いろいろと不幸が重なり、いたたまれず実家に帰ってきたものでしょう。実家で周りの白い目に耐えながら娘と日々を送っていましたが、たまたま世話をする人があり、奥州に嫁ぐことになりました。年の離れた殿ですが、贅沢はいえません。また、自分が望まれたわけではなく、相手は橋本屋の財力と政治力が狙いなのはわかっています。まわりの白眼視から早く逃れたかったのです。
嫁いだ朱里ですが、もう失敗はゆるされません。何とかここで幸せを掴まねばならないのです。そのためには、釜揚の実子を亡きものにして、自分の子に烏城を継がせるのがいちばんと考えたのでしょう。
家老梶山は何とかこのことを釜揚に訴え、朱里を烏城から追放しようとしますが、薬を使って洗脳されている釜揚には何も言っても無駄ではないかと危惧します。とりあえずは、姫だけでも安全な場所に移したい。
相談を受けた佐太夫は、自分たち夫婦が姫を連れて烏城を出奔し、安全な場所にかくまうことを申し出ます。こうして、佐太夫は妻とともに故郷信州の鳥居峠に逃れ、姫を自分たちの娘小夜として育てます。そのうち、二人には男の子が生まれ、佐助と名付けられます。
一方烏城では、梶山がなんとか朱里の悪事を暴こうとしますが、信頼できる部下が次々と朱里により追放され孤立してしまいます。そんな焦燥の日々の果て、梶山は心労のため病に伏し、やがて帰らぬ人となってしまうのです。
知らせを受けた佐太夫ですが、自分一人の力ではなんともすることができません。
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2010年09月10日
保科の里
この記事は「善光寺へ行こう」コメントの続きです。
会津藩主となった保科正之は、徳川秀忠とお静の方との間に生まれた子で、高遠藩主保科正光の養子となって、高遠藩を継いだわけですが、この保科氏のルーツは北信濃でした。
現在は長野市となっていますが、かつての上高井郡保科村がその地であるといわれています。北信濃保科の荘の豪族であった保科氏がなぜ南信濃高遠に移ったのか。おそらく戦国の混乱の中で諏訪氏を頼ってのことだったのではないかといわれています。その諏訪氏も滅亡し、保科氏は甲斐の武田信玄の傘下となります。
武田信玄の没後、高遠城を守っていたのは五男の仁科盛信(「信濃の国」では信盛)でしたが、織田軍に攻められ高遠城は落城してしまいます。このとき盛信とともに戦った保科正直は城を脱出して落ち延びます。その後保科正直は徳川家康の麾下につき、関ヶ原以後は保科氏は高遠藩2万五千石の城主となりました。
会津に移った保科氏は姓を松平に改めます。ここに由緒ある保科氏は途絶えてしまうかと思われましたが、正光の実弟である正貞が幕臣に取り立てられ、やがて上総飯野藩主となり、これが明治維新まで続くのです。
最後の会津藩主となった松平容保の義姉照姫はこの飯野藩主保科正丕の娘です。先刻ご承知のこととは思いますが、長野市保科が保科氏のルーツであること、実はこの地に私は何年か住んだことがあります。菅平への上り口、山間の静かな集落です。
会津藩主となった保科正之は、徳川秀忠とお静の方との間に生まれた子で、高遠藩主保科正光の養子となって、高遠藩を継いだわけですが、この保科氏のルーツは北信濃でした。
現在は長野市となっていますが、かつての上高井郡保科村がその地であるといわれています。北信濃保科の荘の豪族であった保科氏がなぜ南信濃高遠に移ったのか。おそらく戦国の混乱の中で諏訪氏を頼ってのことだったのではないかといわれています。その諏訪氏も滅亡し、保科氏は甲斐の武田信玄の傘下となります。
武田信玄の没後、高遠城を守っていたのは五男の仁科盛信(「信濃の国」では信盛)でしたが、織田軍に攻められ高遠城は落城してしまいます。このとき盛信とともに戦った保科正直は城を脱出して落ち延びます。その後保科正直は徳川家康の麾下につき、関ヶ原以後は保科氏は高遠藩2万五千石の城主となりました。
会津に移った保科氏は姓を松平に改めます。ここに由緒ある保科氏は途絶えてしまうかと思われましたが、正光の実弟である正貞が幕臣に取り立てられ、やがて上総飯野藩主となり、これが明治維新まで続くのです。
最後の会津藩主となった松平容保の義姉照姫はこの飯野藩主保科正丕の娘です。先刻ご承知のこととは思いますが、長野市保科が保科氏のルーツであること、実はこの地に私は何年か住んだことがあります。菅平への上り口、山間の静かな集落です。
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2010年09月09日
続・善光寺に行こう
善光寺の創建については、昨年の春刊行した「こんなにもある善光寺のなぞ」(一草舍)に書いたので重複は避けますが、遅くとも奈良時代には建てられていたようです。平安時代には都にもその名が知られていたので、その頃には門前町もできていたのではないでしょうか。
もともと善光寺は北信濃の豪族の氏寺であったようです。そんな一地方寺院が全国でも有数の有名寺院になったのは、ひとえに宣伝の力が大きかったと思います。豪族が滅びれば氏寺も滅びます。当時の寺院が廃寺として遺構だけをだけを残しているのを見てもわかります。善光寺は生き残ったわけですが、その方策というのが「善光寺縁起」です。善光寺には三国伝来の善光寺如来を祀るとして、その由来が物語風に書かれています。そしてその奇跡としか思えないその霊験も書かれています。
しかし、ただ書かれただけでは一部の知識人しか読むことができません。この「善光寺縁起」の功徳を全国津々浦々まで出かけていって語ったのがいわゆる「善光寺聖」といわれた僧たちです。
鎌倉時代には、源頼朝や執権北条氏の信仰もあり、多くの参詣人が訪れていました。貴人だけではありません。善光寺如来の慈悲にすがろうと、一般の庶民も多く訪れました。民衆が簡単に旅ができる時代ではありませんから、自ずとそこには共同体を追われた、流浪の民が多く集まったのです。
一遍の聖絵というのを見ますと、善光寺の本堂の前で一心不乱に念仏を唱える一遍たちの姿が描かれていますが、善光寺ではいつでもそんな光景が見られたことでしょう。いわばこの世の極楽です。現世では救われることがない人々が集まって、一時の極楽を夢見る場所が善光寺でした。情の世界です。
中世というのはこういう情が支配する世界です。龍馬たちが夢見た理による革命の世界とはだいぶ趣が異なるのではないでしょうか。そんな情が支配する世界に武をもって割り込んできたのが武士たちであり、やがて彼らは独自の道徳やら政治理念を生み出し、それによって世の中を支配するようになるのです。
話が脱線してしまいました。善光寺のことです。産業も資源もない、交通の便も悪い長野が「日本の港」などといわれるようになったのは、善光寺信仰によって多くの人々がここに集まってきたからです。いってみれば、長野は情の都です。今風にいうなら「魂のふるさと」などといえばいいのでしょうか。
もともと善光寺は北信濃の豪族の氏寺であったようです。そんな一地方寺院が全国でも有数の有名寺院になったのは、ひとえに宣伝の力が大きかったと思います。豪族が滅びれば氏寺も滅びます。当時の寺院が廃寺として遺構だけをだけを残しているのを見てもわかります。善光寺は生き残ったわけですが、その方策というのが「善光寺縁起」です。善光寺には三国伝来の善光寺如来を祀るとして、その由来が物語風に書かれています。そしてその奇跡としか思えないその霊験も書かれています。
しかし、ただ書かれただけでは一部の知識人しか読むことができません。この「善光寺縁起」の功徳を全国津々浦々まで出かけていって語ったのがいわゆる「善光寺聖」といわれた僧たちです。
鎌倉時代には、源頼朝や執権北条氏の信仰もあり、多くの参詣人が訪れていました。貴人だけではありません。善光寺如来の慈悲にすがろうと、一般の庶民も多く訪れました。民衆が簡単に旅ができる時代ではありませんから、自ずとそこには共同体を追われた、流浪の民が多く集まったのです。
一遍の聖絵というのを見ますと、善光寺の本堂の前で一心不乱に念仏を唱える一遍たちの姿が描かれていますが、善光寺ではいつでもそんな光景が見られたことでしょう。いわばこの世の極楽です。現世では救われることがない人々が集まって、一時の極楽を夢見る場所が善光寺でした。情の世界です。
中世というのはこういう情が支配する世界です。龍馬たちが夢見た理による革命の世界とはだいぶ趣が異なるのではないでしょうか。そんな情が支配する世界に武をもって割り込んできたのが武士たちであり、やがて彼らは独自の道徳やら政治理念を生み出し、それによって世の中を支配するようになるのです。
話が脱線してしまいました。善光寺のことです。産業も資源もない、交通の便も悪い長野が「日本の港」などといわれるようになったのは、善光寺信仰によって多くの人々がここに集まってきたからです。いってみれば、長野は情の都です。今風にいうなら「魂のふるさと」などといえばいいのでしょうか。
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2010年09月08日
善光寺へ行こう
圧倒的な視聴率を誇った「龍馬伝」、最近少々鼻につくと感じるようになってきたのは私だけでしょうか。まあ、相変わらず見てはいるのですが、「誰もが笑って暮らせる世の中をつくる」などと言われても、今はそんな世の中に近づいているのかといえば、かえって遠ざかっているのではないかと思えたりしますし、外国のいいなりにならない日本といったところで、沖縄の現状を見たら白々しくなってしまうのではないでしょうか。 龍馬が道半ばで倒れたからいけなかったなどとはよもや言う方はいないと思いますが、坂本龍馬とて時代を個人で切り開くほどの力量を持っていたわけではなく、一つの時代の潮流に乗って力を尽くしていたと考えた方がいいでしょう。一つの時代の潮流とは、ヨーロッパやアメリカがそうであったような、近代資本主義社会です。
ヨーロッパやアメリカでは、その担い手は台頭してきたブルジョア階級なのですが、日本においては相変わらず武士階級です。ですから明治維新というのは、武士の覇権争いでありました。幕府という武士階級と薩摩・長州という武士階級の覇権争いであったわけです。
幕府は徳川絶対主義のようなものを指向していたようですが、薩摩や長州だって口では天子様の下の平等を言ってみても、隠した袖の下から薩長絶対主義があっかんべーをしていたのではないでしょうか。
明治維新の不幸は絶対的多数である武士以外の階級が完全に蚊帳の外にいたことです。司馬遼太郎は武士のことを読書階級という風に呼んでいますが、読書階級以外のものたちにはそれは無関係な革命だったということです。読書しない階級というのは、どうもなかなか理では動かなかった階級のようです。圧政には一揆をもって抵抗し、生活苦には「ええじゃないか」でうさを晴らすのですが、なかなか理をもって世の中を変革するということには加わることはなかったのです。
「龍馬伝」に登場する志士たちは、まさに理をもって世の中を変えようとした人たちです。それによってできたのが明治政府であれば、それもやはり理をもって世の中を発展させようとした政府です。その延長にある現代もやはり理の世界であるわけです。
「龍馬伝」から善光寺に話をつなげるのは、風が吹けば桶屋が儲かる式の話よりさらに飛躍が必要な話なのかもしれません。
中世において、善光寺の門前町は全国でも有数の賑わいを誇っていたようなのです。室町時代に書かれた『大塔物語』の中に「およそ善光寺は三国一の霊場、生身の阿弥陀様の浄土であり、日本の港とも言えるほど人の集まるところであって、門前市をなしている。」というくだりがあります。院坊が整備され、僧侶や仏師などの職人が住んでいたという記録も残されています。
中世においても、長野の地理的な条件や気候的な条件が今と異なっていたとは思えません。にもかかわらず長野が「日本の港」とよばれるほどに賑わっていたのは、産業があったわけでも交通の要地であったわけでもない。ましてや政治都市であったわけでもありません。善光寺信仰のおかげなのです。
ヨーロッパやアメリカでは、その担い手は台頭してきたブルジョア階級なのですが、日本においては相変わらず武士階級です。ですから明治維新というのは、武士の覇権争いでありました。幕府という武士階級と薩摩・長州という武士階級の覇権争いであったわけです。
幕府は徳川絶対主義のようなものを指向していたようですが、薩摩や長州だって口では天子様の下の平等を言ってみても、隠した袖の下から薩長絶対主義があっかんべーをしていたのではないでしょうか。
明治維新の不幸は絶対的多数である武士以外の階級が完全に蚊帳の外にいたことです。司馬遼太郎は武士のことを読書階級という風に呼んでいますが、読書階級以外のものたちにはそれは無関係な革命だったということです。読書しない階級というのは、どうもなかなか理では動かなかった階級のようです。圧政には一揆をもって抵抗し、生活苦には「ええじゃないか」でうさを晴らすのですが、なかなか理をもって世の中を変革するということには加わることはなかったのです。
「龍馬伝」に登場する志士たちは、まさに理をもって世の中を変えようとした人たちです。それによってできたのが明治政府であれば、それもやはり理をもって世の中を発展させようとした政府です。その延長にある現代もやはり理の世界であるわけです。
「龍馬伝」から善光寺に話をつなげるのは、風が吹けば桶屋が儲かる式の話よりさらに飛躍が必要な話なのかもしれません。
中世において、善光寺の門前町は全国でも有数の賑わいを誇っていたようなのです。室町時代に書かれた『大塔物語』の中に「およそ善光寺は三国一の霊場、生身の阿弥陀様の浄土であり、日本の港とも言えるほど人の集まるところであって、門前市をなしている。」というくだりがあります。院坊が整備され、僧侶や仏師などの職人が住んでいたという記録も残されています。
中世においても、長野の地理的な条件や気候的な条件が今と異なっていたとは思えません。にもかかわらず長野が「日本の港」とよばれるほどに賑わっていたのは、産業があったわけでも交通の要地であったわけでもない。ましてや政治都市であったわけでもありません。善光寺信仰のおかげなのです。
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