2010年06月11日

戦後の龍馬像

 歴史家の飛鳥井雅道は、著書「坂本龍馬」の冒頭で、次のように読者に問いかけている。
「龍馬は真に理解された上で愛されているのだろうか。」
 現在、福山雅治演じるところの坂本龍馬を毎週見ている私たちは、この問いかけに大きくうなずくのである。あれが史実だとは思っていないが、実在の坂本龍馬も福山龍馬とは違うものだろうと思う。
 飛鳥井がこの問いを発したのは1970年代のことである。彼が同書の中で指摘しているように、その当時の龍馬像というのは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の影響が決定的だった。飛鳥井は言う。
「司馬氏は、国民がいだきはじめてきていた愛すべき龍馬像を大きく司馬的に拡大し定着するのに成功することで、戦後の龍馬像の決定版をつくられたのであった。」
 ここで言われている戦後の龍馬像とは、戦後民主主義と経済成長の果てに見える典型的な日本人像であり、「明るく、楽天的で磊落な人物であり、気取りがない」そんな人物としての龍馬なのである。
 時代は変わり、現代はあの時代の人々が未来の世界として夢見ていたような、明るく自由な世界とはずいぶんとかけ離れたものになってしまった。それでも、またこの時代になって龍馬がもてはやされているというのは何故なのだろうか。  

Posted by 南宜堂 at 22:39Comments(0)幕末・維新

2010年06月08日

ネット社会の非常識 他山の石

 《THE JOURNAL》では、主宰の高野孟の意向でコメント欄を自由投稿の形式にしていましたが、最近のアクセス数の増加に比例して、荒らし行為やなりすましが頻発するようになってきました。ここ数日はサーバーの負荷も増加し、サイトの運営そのものまで影響が出るような状況になってきました。
 そこで、大変申し訳ございませんが、コメント欄は承認制に変更し、編集部が許可したコメントだけを公開することになりました。もちろん、記事に対する異論や反論は自由ですので、それだけの理由で公開しないということはありません。

 これは最近《THE JOURNAL》というブログサイトが発表したコメントの承認制についての告知である。小さいながら、私の「あれこれ南宜堂」も同じ理由で同じ方針をとっている。しかしこのことは常に両刃の剣のような危険性もはらんでいることを自覚していなければならない。
 私が常々ここで批判している、某研究会のサイトも同じようなことをしたのだ。つまり、会のサイトの掲示板の投稿を、主宰者の判断で主宰者に都合の悪いものを削除したというものである。私は以前このことを、掲示板は会員の共有物であるという理由で批判した。
 しかし、主宰者はこれは「荒らし行為やなりすまし」行為であり、はては個人攻撃が行われているとして削除したのだということを言っているらしい。
 そうではないのだと反論してみたところで、それぞれがもつ荒らしか批判かの判断基準が違う以上は、これはどこまでいっても水掛け論に終わってしまう。この共通の判断基準というのを作り上げることが、「ネット社会の非常識」をなくしていくためのひとつの方法なのだろうが、これがなかなか困難な課題なのだ。
 ただ、この主宰者がその後どんなことをしたのかということを検証してみるのは「他山の石」として、私に多くの教訓を残してくれた。
 主宰者はこの研究会をいったん解散して、批判者を排除した上で新たに同名の会を発足させた。そして、「思想信条の異なる方の入会はお断りします。」という会則を設けたのである。つまりこれが主宰者にとっての判断基準というわけだ。
 ここでいう「思想・信条」の使い方はどうも十分に熟しているとは思えないのだが、おそらく主宰者が言いたかったことは、「私の考えに反対する人は入ってきていただいては困る」ということだろう。「思想信条」は最初「思想心情」となっていたくらいであるから。むしろ「思想心情」とした方が主宰者の意志は伝わりやすかったのかもしれない。
 新たにできた研究会にどのくらいの会員がいるのかは知らないが、おそらく誰もがこの会則などは気にもかけていないと思う。和気あいあいとやっている分には会則など関係ないのだ。
 しかし、時に主宰者やその取り巻きのやり方がおかしいと思ったとき、一言でもそれに異を唱えれば、その人はその時点で会則違反で退会処分となる。そういう仕組みがつくってあるのだ。  

Posted by 南宜堂 at 11:31Comments(2)ネット社会

2010年06月06日

ネット社会の非常識 序章

 ネット社会と一口に言うが、私などには思いも及ばない世界がど んどん展開している。メール、ブログ、ミクシー、ツィッ ターなどはなんとなく輪郭くらいはつかめるものの、その実態ともなる と霧の中を手探りで歩くような感覚である。
 「ネット社会の非常識」は、そんな世界のモラルのなさを自分の体験に即して語りはじめたものなのだが、身近なことだけに、時に筆が感情に流されることもあり、いささか下品になっていると反省をしている。
 毎度おなじみの例の会の事件というのは、投稿の勝手な削除、掲示板 の閉鎖、会の解散、と思ったら再結成と続く非常識を批判したものだ が、実はその前に兆候ともいうべき出来事があった。
 それはネットでの批判や攻撃に対するこの主宰者の過敏ともいえる反応である。この主宰者は著述を仕事としており、多くの著書を持っていた。これら著書に対する悪質な中傷や批判について主宰者が反応しはじめたのである。
 2ちゃんねるなどを通して、さまざまな事に対する誹謗、個人攻撃が行われているのは時に社会問題化しているので、よく知られていることである。
 この主宰者に対する攻撃のことも、何らかのきっかけで主宰者が知ることとなり、犯人探しがはじまったのだ。最初は表立ったことはせずに、主宰者と例の取り巻き二人の間で情報交換をしながら行われていたようなのだ。そのうちに主宰者のホームページにそんなことを匂わす記事が載るようになり、ネット犯罪の記事の切り抜きが掲載されたり、警察に情報を渡しているとか、弁護士に相談しているなどの言い方が目立つようになった。
 騒ぎはだんだんとエスカレートして、主宰者が明智小五郎を名乗り、取り巻きがが歴女軍団なるものに扮し、犯人探しがはじまった。そのことを知った周囲の人たちは、ネットでの誹謗中傷は無視するに限ると諌めたのだが、例の取り巻きが次から次へとこんな批判が載ってましたとご注進するせいもあってか、事態はどんどんエスカレートしていった。
 ついにどこで聞きつけたのか、特定のある人物、彼は以前その会に所属していたのだが、彼を犯人として名指しするにいたった。当の人物も否定しているにもかかわらず、掲載され多くの人の知るところとなった。主宰者が犯人と断定した以上つじつまを合わせなければいけないと思ったのか、その人物を知る人などに聞きまわり、はっきりと否定されてしまったりした。
 そのうち主宰者も間違いに気づいたのか、このことに言及するのをやめてしまった。そして周囲の声にまずいと思ったのか、その部分について得意の削除が行われた。しかし、犯人と名指しされた人物には謝罪も何もない。
 これら一連の出来事の中にもいくつかの学ぶべき「ネット社会の非常識」が含まれている。
 まず、匿名による誹謗中傷である。この主宰者に対しても、実につまらない批判がネット上で行われた。自分には身に覚えのないことなのだから無視すればいいのであるが、過激に反応することで、却って批判が的を射ていると思われてしまうのである。どうもこれについては、主宰者に誹謗中傷記事のコピーを送りつけ、後ろからあおっていたものがいたようだが、主宰者はこういうことが自分にマイナスに働くとは思わず、却ってありがたいと感謝さえしていたようなのだ。
 ネットでの誹謗中傷は匿名で行われるだけに過激で腹立たしいのだが、それを抑える有効な手段というのはなかなかなくて、無視することが最善の方策なのである。
 時に、こういうことを夢中になってパソコンに書き込んでいる人間はどんな人なのだろうと思うこともある。オタクということばが真っ先に頭に浮かぶが、案外昼間はまったく別な顔を持つ人間がジキルとハイドのように別な人格に変身しているのかもしれない。
 さらには、この主宰者がとったような犯人探しもまた「ネット社会の非常識」につながる。どうやって犯人を特定したのか、個人が調べたってわかるはずはないのだから、あいつではないかとの思い込みからどんどんエスカレートしていって、ついにはあいつに違いないというところにまでいってしまう。これも恐ろしいことだ。犯人に名指しされた人間は、それだけのために人生がめちゃめちゃになることだってあるだろう。実際に主宰者や取り巻きは、実名こそは記さなかったものの、彼を知る人が読めばすぐわかるような職業など書き込んでいるのだ。さらには取り巻きなどは、名指しされた人物に「 あやまりなさい」とまでいっている。
 こういったネットでの非常識に対抗していく手段としいうのははたしてあるのだろうか。現在はこれといった妙案があるとは思えない。個人で対抗するしかないのかもしれない。もしかしたら、私たちはネットの中だけでなく、実社会でも同じような危険にさらされているのかもしれないと思うこともある。  

Posted by 南宜堂 at 22:57Comments(4)ネット社会

2010年06月05日

会津藩の場合

 慶応4年1月17日に仙台藩に対し、会津藩追討の朝命が下ったことは先に述べた通りであるが、会津藩自身はこのころどうしていたのだろうか。
 鳥羽伏見の戦いで錦旗に発砲したとして会津藩主松平容保は、徳川慶喜とともに朝敵とされた。慶喜はいち早く恭順の意を示し、2月11日、上野寛永寺内の大慈院に引きこもった。
 同じ日、容保は輪王寺宮を通じて朝廷に嘆願書を提出し、慶喜への寛大な処置を願うとともに、自身も恭順して国元に帰り隠居することを申し出ている。
 2月22日、容保は会津に帰国した。家督を慶喜の弟である養子の喜徳に譲ったが、喜徳が14歳という年齢のため、委任を受けて政務を担当することにした。
 容保父子にとって、絶対恭順ということはありえなかった。なんとしても朝敵の汚名を雪がなければならない。鳥羽伏見の一件は、敵の攻撃を受けて発砲したまでであり、朝廷に対してはまったく異心を抱いていない。容保が恭順の意を示したのは、慶喜の恭順によりはからずもしたことである。もしそれでも敵が会津を攻めるようなことあらば、挙藩一致して防戦につとめるだろうというものであった。
 3月10日、会津藩は軍制を改革した。年齢と身分により隊を分けたのである。年齢により、玄武(50歳以上)・青竜(36歳から49歳)・朱雀(18歳から35歳)・白虎(16歳・17歳)に分け、それぞれの隊を身分により士中隊・寄合組隊・足軽隊に編成した。飯盛山で自刃する白虎隊は士中二番隊である。
 鳥羽伏見での苦い経験から、古い長沼流の兵法からの脱却も課題であった。旧幕府軍の士官が洋式訓練の指導に当たったが、習熟というにはほど遠かった。
 この当時、藩士の中にこれで勝てるのかという疑問を呈するものがいなかったのだろうか。いかに西南諸藩のことに疎くとも、一度鳥羽伏見で戦っているのである。会津藩はこの不十分な軍備をいったい何で補って戦おうとしたのだろうか。「会津士魂」なのか。
 会津は戦いに追い込まれたのだという見方もある。司馬遼太郎が言うように、革命には血祭りに上げるものが必要なのかもしれない。戊辰戦争において、それは徳川慶喜であった。しかし、それが勝・西郷会談で回避されたため、抜いた刀の矛先は会津に向かったのだというのである。
 それでは会津に戦う意志はなかったのかというと、今まで見たように「朝敵の汚名を雪ぐ」という大義名分のため、武備恭順の姿勢で薩摩・長州を迎え撃つ覚悟でいた。
   

Posted by 南宜堂 at 10:06Comments(0)幕末・維新

2010年06月03日

会津藩追討

 戊辰戦争の後半戦については、今までまともに書かれたものを読んだことがなかった。
 江戸城の無血開城そして彰義隊の壊滅、これをもって江戸幕府は実質的に滅びたわけだから、政治史としては後は明治元年の「五箇条の御誓文」あたりにつながればいいわけだ。
 では、その後の東北での戦争、蝦夷地での戦争とは何だったのか。新政府にしてみれば、抵抗勢力の排除という意味合いしかもたなかった。
 一方の対抗する会津や東北諸藩にしてみても、理不尽な薩長に対する抵抗戦という観点からとらえるのが一般的である。
 抵抗する会津などの視点で書かれたものも、会津の正義を強調したり、亡びの美をうたい上げたものが多く、歴史書として読むならばまともに読めないしろものが多い。

 慶応4年1月17日、仙台藩主伊達慶邦に対し会津藩追討の命が下った。これに対し慶邦は、2月11日に五箇条にわたる建白書を起草し、大条孫三郎を使者として京都に遣わした。その内容は、鳥羽伏見の戦いでは先に発砲したのが会津や桑名なのか、それとも薩摩なのかはっきりしない。それを会津藩だけを追討の対象とするのはおかしいのではないかというものであった。
 この建白書は在京中の三好堅物に、提出の時期を失していると反対され、引っ込めてしまったのである。慶邦はこの時の三好の行為に対して激怒したというのだが、彼はこの建白が採用され、会津が救済されるなどとほんとうに思っていたのだろうか。この時の朝廷を牛耳っていたのは薩摩であるというのは自明の理であった。その朝廷に、非は会津にだけあるのではなく、薩摩にもある。どうか寛大な御処置をと訴えたところで、却下されるのは当然のことなのではないか。
 このとき慶邦が大藩仙台の力を背景に、朝廷に対して自らの意見を披露して認めさせようとしていたのなら、それは大きな誤算であった。奥羽の雄でありながら、仙台藩は幕末の政局に何ら関与してこなかったのである。
 同じ頃、といってもひと月も前になるが、勝海舟も将軍徳川慶喜の救済のための嘆願を大総督府にしている。そこには、「伏見の挙、小卒の誤りに発す。すでに先五六年、毛利家、闕下に不敬ありといえども、その情実判然たる時は、また今日のごとし、天朝といえども、一も誤りなしといわんや、いわんやわが徳川氏においてをや。」と、伊達慶邦と同じような論理で幕府を擁護した後に、さらに外国の脅威をあげ、いたずらにここで戦端を開けば、中国やインドの轍を踏むことになると警告しているのである。
 そして、同じようなことを当時参与であった松平慶永にも書き送り、大総督府への仲介を依頼しているのである。実に周到な方法をとっているのである。
 これに比べると仙台藩の嘆願は杜撰のそしりを免れない。会津追討令の引き延ばしのためのアリバイ工作に取りあえず建白書を出そうとしたのか、それとも京の情勢に暗かったのか。私は両方ではないかと思うのだが、奥羽越列藩同盟に向けての動きははじめから緊張感を欠いていた。  

Posted by 南宜堂 at 23:44Comments(0)幕末・維新