2010年06月21日
ネット社会の非常識 モラルとカネ
某研究会主宰者に対する疑惑は、「政治とカネ」というより「モラルとカネ」と称した方が適切であろう。私は本ブログでもっぱらモラルの問題を前面にして取り上げてきた。そして、カネの問題は主宰者とその取り巻きに直接メールで抗議してきたのである。
その発端が下記に示した「質問状」である。これについては私の再三の催促にもかかわらず、なしのつぶて、何の返事もない。わずかに示した反応は、主宰者のホームページで、最近迷惑メールが来て困るので差出人の住む県警に相談するつもりだというような記事を掲載したことである。
これに対し私は次のようなメールを主宰者と取り巻きに送った。
「貴ホームページの迷惑メールとは私のことでしょうか。
私は下記の質問についての回答を求めているのです。1ヶ月たってもまったく回答がありません。
どうか、貴ホームページに下記の全文を掲載し、そちらで回答いただいてもかまいません。」
するとこれについてはすぐさま反応した。迷惑メール云々の記事は削除されたのである。コピーできなかったのは残念であった。それに代って次の文章が差し替えられていた。「本日、大事件が起りましたので、メール問題は後日にまわしました。」大事件とは、鳩山首相の辞任のことであるらしい。
話がだんだんとこじれてきてしまったのだが、私は○○研究会の「モラルとカネ」の問題で主宰者の説明を求めたのである。
「さまざまな事情により○○研究会は解散しました。」と主宰者の挨拶状にあるように、会は解散したのである。にもかかわらず「○○研究会は2005年に発足しました。作家A(注主宰者のこと)を囲む楽しい研究会です。」とあたかもずっと継続しているように見せかけて再発足するというのはどう考えても欺瞞ではないだろうか。
しかも、この時点で会員を選別しているのである。私については「ご入会のご希望をお持ちのようですが、お断り致します。」と事務局からの一片のメールで入会を拒否されたのである。
解散時の60名の会員は、こういう手続きを経てたった12名に絞られたようである。というよりもこの新しい会の胡散臭さに入会を見送った会員が多かったようだ。
五分の一の会員であたかも2005年から続いているようにうたうのは詐欺ではないかと思う。しかも突然の解散にもかかわらず、旧会員48名には今年分の会費3000円が小為替で送られてきただけで、会計報告もなされていないのである。このことだけをとっても偽装解散による会費の搾取と思われても仕方がないのではないだろうか。
こういうことが、多くの著作を持ち、各地で講演会を開き、地方新聞に連載も持っている著名な作家の主宰する会で行われているということが私には不思議でならない。
私は公の場で発言の場を持たない無名の人間に過ぎないので、自分のブログという私的な場で発言するしかない。泣き寝入りすることがどうしても自分の中で納得がいかなかったので「ネット社会の非常識」として記事を書き継いできた。
かの主宰者は、やろうと思えば多くの媒体を利用して私の批判など簡単に蹴散らすことができるだろう。彼はマスコミの世界に長くいたので、そんな方法は十分に心得ていることだろう。
しかし、ここに誰にも邪魔されることのないブログという小さな発言の場があるということは、何とも心強い限りである。さんざんにネット社会を批判してきたが、こういう場が個人にも与えられているということだけは賞賛しなければいけないと思う。
質問状
○○研究会の発足おめでとうございます。
と言いたいところですが、いささか釈然としないところがありますので、そこのところをいくつか質問させていただき、また私からの要望を述べさせていただきます。
●解散なのか、継続なのか、
A氏(主宰者)より届いた「ごあいさつ」には「さまざまな事情により○○研究会は解散しました。」とあり、同封の○○研究会名のメモにも「会の解散に伴いまして会費を返金させていただくことになりました。」とあり、当然解散したものと理解しておりました。
ところが、○○研究会 企画室 事務局 B氏より私へのメールでは、
「○○研究会は、清算をすることはありません。
○○研究会は、私どもが引き続き運営して参ります。
○○研究会は、Aの会として今後も活動を続けて参ります。」
とあります。
幹部の間で意見が異なっているようですが、どちらが正しいのか。これは当然のことながら代表者であるA氏の見解が正しいと理解すべきでしょう。したがって、いったん○○研究会は解散し、新たに同名の○○研究会を発足させたと理解いたしますが、それでよろしいでしょうか。
●解散した○○研究会の事業報告、会計報告はどうなっているのか。
私のもとには現金書留で3000円が送られてきました。同封メモには「会費を返金させていただく」とありましたが、どういう会費なのでしょうか。3000円は1年分の会費ですが、私は3年間に9000円の会費を払っております。会の運営に使われたということでしょうが、本年3月末の会計報告では30万円弱の会費の繰越金があったと記憶しています。ホームページが閉鎖されたので確認はできません。
その根拠をただしたところ、
「会計上の処理は、監査役のC殿のご承認済みですので、
近々、新たなHPでご報告致します。」
解散した会の会計報告を、新発足の会のホームページに掲載するというのもおかしな話です。私のような入会を拒否された会員、あるいは入会を希望しなかった会員はどうやって確認したらいいのでしょう。100歩譲って旧会員一人一人に告知するのは煩雑であるとするならば、全員が閲覧できる措置を講ずるべきでしょう。
また、この報告について異議申し立てができる場をつくることも当然のことと思います。
●私の入会希望について、「ご入会のご希望をお持ちのようですが、お断り致します。」というメールを○○研究会 企画室 事務局 B名儀でいただきました。これはB氏の個人的な意見ですか。それとも、総裁(主宰者)も含め企画室で討議されて出された結論ですか。
このようなことを申し上げるのはまことに口幅ったいのですが、私とA氏は約30年にわたり友人関係を築いてきた間柄であると、少なくとも私は思っております。そういう私を一事務局員名で拒否・排除するとはいささか礼を失しているのではないでしょうか。
もし入会を拒否するにしても、A氏より直接理由を記してなさるべきではないでしょうか。
本質問状は、○○研究会会長A氏並びに、○○研究会 企画室 事務局 B氏に提出させていただきますが、納得のいく回答がいただけない場合は、新企画室員、新支部長、新相談役、新顧問各位にも同様の質問状を送付し、問題を共有していただいて論議していただきたいと思っております。
どうか誠意ある回答をお願いいたします。
平成22年5月4日
その発端が下記に示した「質問状」である。これについては私の再三の催促にもかかわらず、なしのつぶて、何の返事もない。わずかに示した反応は、主宰者のホームページで、最近迷惑メールが来て困るので差出人の住む県警に相談するつもりだというような記事を掲載したことである。
これに対し私は次のようなメールを主宰者と取り巻きに送った。
「貴ホームページの迷惑メールとは私のことでしょうか。
私は下記の質問についての回答を求めているのです。1ヶ月たってもまったく回答がありません。
どうか、貴ホームページに下記の全文を掲載し、そちらで回答いただいてもかまいません。」
するとこれについてはすぐさま反応した。迷惑メール云々の記事は削除されたのである。コピーできなかったのは残念であった。それに代って次の文章が差し替えられていた。「本日、大事件が起りましたので、メール問題は後日にまわしました。」大事件とは、鳩山首相の辞任のことであるらしい。
話がだんだんとこじれてきてしまったのだが、私は○○研究会の「モラルとカネ」の問題で主宰者の説明を求めたのである。
「さまざまな事情により○○研究会は解散しました。」と主宰者の挨拶状にあるように、会は解散したのである。にもかかわらず「○○研究会は2005年に発足しました。作家A(注主宰者のこと)を囲む楽しい研究会です。」とあたかもずっと継続しているように見せかけて再発足するというのはどう考えても欺瞞ではないだろうか。
しかも、この時点で会員を選別しているのである。私については「ご入会のご希望をお持ちのようですが、お断り致します。」と事務局からの一片のメールで入会を拒否されたのである。
解散時の60名の会員は、こういう手続きを経てたった12名に絞られたようである。というよりもこの新しい会の胡散臭さに入会を見送った会員が多かったようだ。
五分の一の会員であたかも2005年から続いているようにうたうのは詐欺ではないかと思う。しかも突然の解散にもかかわらず、旧会員48名には今年分の会費3000円が小為替で送られてきただけで、会計報告もなされていないのである。このことだけをとっても偽装解散による会費の搾取と思われても仕方がないのではないだろうか。
こういうことが、多くの著作を持ち、各地で講演会を開き、地方新聞に連載も持っている著名な作家の主宰する会で行われているということが私には不思議でならない。
私は公の場で発言の場を持たない無名の人間に過ぎないので、自分のブログという私的な場で発言するしかない。泣き寝入りすることがどうしても自分の中で納得がいかなかったので「ネット社会の非常識」として記事を書き継いできた。
かの主宰者は、やろうと思えば多くの媒体を利用して私の批判など簡単に蹴散らすことができるだろう。彼はマスコミの世界に長くいたので、そんな方法は十分に心得ていることだろう。
しかし、ここに誰にも邪魔されることのないブログという小さな発言の場があるということは、何とも心強い限りである。さんざんにネット社会を批判してきたが、こういう場が個人にも与えられているということだけは賞賛しなければいけないと思う。
質問状
○○研究会の発足おめでとうございます。
と言いたいところですが、いささか釈然としないところがありますので、そこのところをいくつか質問させていただき、また私からの要望を述べさせていただきます。
●解散なのか、継続なのか、
A氏(主宰者)より届いた「ごあいさつ」には「さまざまな事情により○○研究会は解散しました。」とあり、同封の○○研究会名のメモにも「会の解散に伴いまして会費を返金させていただくことになりました。」とあり、当然解散したものと理解しておりました。
ところが、○○研究会 企画室 事務局 B氏より私へのメールでは、
「○○研究会は、清算をすることはありません。
○○研究会は、私どもが引き続き運営して参ります。
○○研究会は、Aの会として今後も活動を続けて参ります。」
とあります。
幹部の間で意見が異なっているようですが、どちらが正しいのか。これは当然のことながら代表者であるA氏の見解が正しいと理解すべきでしょう。したがって、いったん○○研究会は解散し、新たに同名の○○研究会を発足させたと理解いたしますが、それでよろしいでしょうか。
●解散した○○研究会の事業報告、会計報告はどうなっているのか。
私のもとには現金書留で3000円が送られてきました。同封メモには「会費を返金させていただく」とありましたが、どういう会費なのでしょうか。3000円は1年分の会費ですが、私は3年間に9000円の会費を払っております。会の運営に使われたということでしょうが、本年3月末の会計報告では30万円弱の会費の繰越金があったと記憶しています。ホームページが閉鎖されたので確認はできません。
その根拠をただしたところ、
「会計上の処理は、監査役のC殿のご承認済みですので、
近々、新たなHPでご報告致します。」
解散した会の会計報告を、新発足の会のホームページに掲載するというのもおかしな話です。私のような入会を拒否された会員、あるいは入会を希望しなかった会員はどうやって確認したらいいのでしょう。100歩譲って旧会員一人一人に告知するのは煩雑であるとするならば、全員が閲覧できる措置を講ずるべきでしょう。
また、この報告について異議申し立てができる場をつくることも当然のことと思います。
●私の入会希望について、「ご入会のご希望をお持ちのようですが、お断り致します。」というメールを○○研究会 企画室 事務局 B名儀でいただきました。これはB氏の個人的な意見ですか。それとも、総裁(主宰者)も含め企画室で討議されて出された結論ですか。
このようなことを申し上げるのはまことに口幅ったいのですが、私とA氏は約30年にわたり友人関係を築いてきた間柄であると、少なくとも私は思っております。そういう私を一事務局員名で拒否・排除するとはいささか礼を失しているのではないでしょうか。
もし入会を拒否するにしても、A氏より直接理由を記してなさるべきではないでしょうか。
本質問状は、○○研究会会長A氏並びに、○○研究会 企画室 事務局 B氏に提出させていただきますが、納得のいく回答がいただけない場合は、新企画室員、新支部長、新相談役、新顧問各位にも同様の質問状を送付し、問題を共有していただいて論議していただきたいと思っております。
どうか誠意ある回答をお願いいたします。
平成22年5月4日
2010年06月18日
ネット社会の非常識 おやめなさい
例の研究会の主宰者が、新聞記事を引用してずいぶんとはしゃいだ発言をしている。
新聞記事というのは、「岩手日報」という新聞に掲載された「小沢氏の去就 「使命」果たしたのでは」という宮沢徳雄という署名のある論説記事のことで、「すごい論説、小沢さんおやめなさい」と主宰者はテンションを上げている。
当然のことながら、小沢氏とは岩手県選出の民主党衆議院議員小沢一郎氏のことであり、主宰者によれば「小沢サンの地元、岩手日報というところに重みがある。岩手日報、見事ですね。」なのである。
私はこの論説、見事とも何とも思えなかったので、まずそのことから記す。宮沢氏の論説をそのまま引用することも考えたのだが、煩雑になるので、さわりだけを引用する。全文は「岩手日報」のホームページもしくは、主宰者のホームページで閲覧できるので、興味のある方はご覧下さい。
「 昨年夏の衆院選で「政権交代」を果たした原動力が小沢氏であることは周知の事実。「参院選に勝ち、政権安定と改革実行が可能になる」-とは本人の言葉だが、世論は鳩山、小沢両氏につきまとった「政治とカネ」に嫌悪感を抱いているのが明らかだ。
どうだろう。この辺で鳩山前首相と共に政界から身をひくことを考えてみては。
かつて評論家江藤淳氏が陶淵明の詩「帰去来辞」を引用して小沢氏に「帰りなん、いざ。田園まさに蕪(あ)れんとす。なんぞ帰らざる」と帰郷を勧めたことがある。
すでに十分に「使命」を果たしたのではないか。」
世論は政治とカネに嫌悪感を抱いているといわれるが、はたしてそうなのか。確かに岩手日報はじめおおかたのマスコミの世論調査では、説明責任が果たされていないという結果が出ている。しかし、小沢氏への疑惑は「だろう』的な判断でなされる曖昧なものだとの指摘もある。検察の調べでは不起訴ということにもなっているのだ。
私はマスコミの報道というのは「あいつは悪だ」的な先入観からなされる恣意的なものではないかと常々思っている。確たる証拠もなく書き立てること自体が、マスコミを使ったペンの暴力ではないかとさえ思っているのだ。
かの主宰者も、かつて確たる証拠もないのにある人物を犯人扱いしたことがあることは前に述べた。この主宰者もまたペンの力という暴力装置を持っているのだ。しかも、この犯人扱いされた人物は小沢氏のように権力を持っている人間ではない。
「どうだろう。この辺で鳩山前首相と共に政界から身をひくことを考えてみては。」私はこういう世論の力を背景になされるマスコミ人の思い上がりというものが大嫌いだ。主語はないのだ。あえていえば、世論を代表する筆者ということになるが、世論という盾の後ろに隠れて鉄砲を撃っているようなもので、世論が変われば急に小沢氏をちやほやしたりするのがマスコミ人なのである。
この主宰者もかつてはマスコミ人であった。その根性はいまだに抜けきれていないようで、書くことも為すことも時流に迎合したものでしかない。そういえば、かつて彼はこんな風に言っていたことがある。「自分は作家とか学者とかいうよりも、ジャーナリストなのだから、主義や主張を要求されても困る」と。
本論はここからだ。主宰者は「政治とカネ」の問題で世間を騒がせている小沢一郎氏に対し「おやめなさい」と忠告する新聞記事に拍手喝采を送っているのだが、彼もまた自らが主宰する会の「政治とカネ」の問題で批判を受けているのである。そしていまだに主宰者の座に君臨していて、皆さん楽しくやりましょうなどとうそぶいているのである。
この項つづく
新聞記事というのは、「岩手日報」という新聞に掲載された「小沢氏の去就 「使命」果たしたのでは」という宮沢徳雄という署名のある論説記事のことで、「すごい論説、小沢さんおやめなさい」と主宰者はテンションを上げている。
当然のことながら、小沢氏とは岩手県選出の民主党衆議院議員小沢一郎氏のことであり、主宰者によれば「小沢サンの地元、岩手日報というところに重みがある。岩手日報、見事ですね。」なのである。
私はこの論説、見事とも何とも思えなかったので、まずそのことから記す。宮沢氏の論説をそのまま引用することも考えたのだが、煩雑になるので、さわりだけを引用する。全文は「岩手日報」のホームページもしくは、主宰者のホームページで閲覧できるので、興味のある方はご覧下さい。
「 昨年夏の衆院選で「政権交代」を果たした原動力が小沢氏であることは周知の事実。「参院選に勝ち、政権安定と改革実行が可能になる」-とは本人の言葉だが、世論は鳩山、小沢両氏につきまとった「政治とカネ」に嫌悪感を抱いているのが明らかだ。
どうだろう。この辺で鳩山前首相と共に政界から身をひくことを考えてみては。
かつて評論家江藤淳氏が陶淵明の詩「帰去来辞」を引用して小沢氏に「帰りなん、いざ。田園まさに蕪(あ)れんとす。なんぞ帰らざる」と帰郷を勧めたことがある。
すでに十分に「使命」を果たしたのではないか。」
世論は政治とカネに嫌悪感を抱いているといわれるが、はたしてそうなのか。確かに岩手日報はじめおおかたのマスコミの世論調査では、説明責任が果たされていないという結果が出ている。しかし、小沢氏への疑惑は「だろう』的な判断でなされる曖昧なものだとの指摘もある。検察の調べでは不起訴ということにもなっているのだ。
私はマスコミの報道というのは「あいつは悪だ」的な先入観からなされる恣意的なものではないかと常々思っている。確たる証拠もなく書き立てること自体が、マスコミを使ったペンの暴力ではないかとさえ思っているのだ。
かの主宰者も、かつて確たる証拠もないのにある人物を犯人扱いしたことがあることは前に述べた。この主宰者もまたペンの力という暴力装置を持っているのだ。しかも、この犯人扱いされた人物は小沢氏のように権力を持っている人間ではない。
「どうだろう。この辺で鳩山前首相と共に政界から身をひくことを考えてみては。」私はこういう世論の力を背景になされるマスコミ人の思い上がりというものが大嫌いだ。主語はないのだ。あえていえば、世論を代表する筆者ということになるが、世論という盾の後ろに隠れて鉄砲を撃っているようなもので、世論が変われば急に小沢氏をちやほやしたりするのがマスコミ人なのである。
この主宰者もかつてはマスコミ人であった。その根性はいまだに抜けきれていないようで、書くことも為すことも時流に迎合したものでしかない。そういえば、かつて彼はこんな風に言っていたことがある。「自分は作家とか学者とかいうよりも、ジャーナリストなのだから、主義や主張を要求されても困る」と。
本論はここからだ。主宰者は「政治とカネ」の問題で世間を騒がせている小沢一郎氏に対し「おやめなさい」と忠告する新聞記事に拍手喝采を送っているのだが、彼もまた自らが主宰する会の「政治とカネ」の問題で批判を受けているのである。そしていまだに主宰者の座に君臨していて、皆さん楽しくやりましょうなどとうそぶいているのである。
この項つづく
2010年06月18日
龍馬の幽霊
坂崎紫瀾の小説「汗血千里駒」が高知の土陽新聞に連載されるのは、明治16年、さらに単行本となって多くの読者を得るのは、2年後の明治18年のことである。これをもって坂本龍馬伝の嚆矢とされているわけであるが、司馬遼太郎は「歴史と小説」と題したエッセィ集の中で、龍馬復活についての興味深い話を紹介している。
時は明治37年2月、日露開戦の前夜のことである。皇后(昭憲皇太后)の夢に、白装束の武士があらわれた。彼は自分は坂本龍馬であると名乗り、「魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言って消えたのだという。この話は東京中の新聞に載り、世間は一時その話でもちきりになった。
司馬はこの夢の話について、「竜馬の性格からみて夢枕に立つような趣味はなさそうだが」と断ったあとで、「意地わるくみれば、当時、そのころの流行語である「恐露病」にかかっていた国民の士気をこういうかたちで一変させようとしたのではないかと思われるし、さらに意地悪くみれば、(中略)土佐株をあげるために宮中関係者のあいだでこういう話をつくったのではないかと疑えば疑えぬことはない。」と、話は眉唾物ではないかと一蹴している。
いずれにせよ、このころから坂本龍馬は人々の口の端に上るようになったようである。そういう意味では、宮中にいた土佐人たちのねらいは当ったわけである。
さらに大正時代に入ると、大正デモクラシーの精神から、例の「船中八策」が立憲主義の先駆として学問的に評価されるようになると、飛鳥井はいう。
「ここにデモクラシー歴史観、平和革命論者龍馬の像が成立した。このイメージは学問的スタイルをとっていたし、この過程で、龍馬の思考を伝えるとされる「藩論」というパンフレットが発見されたこともあって、好くも悪しくも、戦後まで引きつがれてきているのである。」
時は明治37年2月、日露開戦の前夜のことである。皇后(昭憲皇太后)の夢に、白装束の武士があらわれた。彼は自分は坂本龍馬であると名乗り、「魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言って消えたのだという。この話は東京中の新聞に載り、世間は一時その話でもちきりになった。
司馬はこの夢の話について、「竜馬の性格からみて夢枕に立つような趣味はなさそうだが」と断ったあとで、「意地わるくみれば、当時、そのころの流行語である「恐露病」にかかっていた国民の士気をこういうかたちで一変させようとしたのではないかと思われるし、さらに意地悪くみれば、(中略)土佐株をあげるために宮中関係者のあいだでこういう話をつくったのではないかと疑えば疑えぬことはない。」と、話は眉唾物ではないかと一蹴している。
いずれにせよ、このころから坂本龍馬は人々の口の端に上るようになったようである。そういう意味では、宮中にいた土佐人たちのねらいは当ったわけである。
さらに大正時代に入ると、大正デモクラシーの精神から、例の「船中八策」が立憲主義の先駆として学問的に評価されるようになると、飛鳥井はいう。
「ここにデモクラシー歴史観、平和革命論者龍馬の像が成立した。このイメージは学問的スタイルをとっていたし、この過程で、龍馬の思考を伝えるとされる「藩論」というパンフレットが発見されたこともあって、好くも悪しくも、戦後まで引きつがれてきているのである。」
2010年06月17日
汗血千里駒
高知へ戻った坂崎は、「立志社」の機関誌・土陽新聞の編集長となる。そして明治13年9月から、間崎滄浪、平井収二郎、坂本龍馬らといった土佐出身の志士たちのことを小説「南の海血汐の曙」に書き、連載をはじめたのである。
その後は、板垣退助の遊説に同行したり、民権一座をつくり講演してまわったりと民権運動に挺身するが、その度に不敬罪などで捕まり裁判にかけられた。
保釈中の明治16年、「土陽新聞」小説「汗血千里駒」の連載をはじめた。これが本格的な坂本龍馬の伝記の最初である。龍馬再発掘のきっかけともなった「汗血千里駒」の作者は坂崎斌、号は紫瀾と称した。
その「汗血千里駒」の冒頭には、井口村事件が取り上げられている。井口村事件は文久元年に土佐藩内で起こった刃傷事件で、上士と下士の関係を象徴するものであった。この時の龍馬は下士たちのリーダーであり、自刃した仲間の血潮に自らの刀の白下緒を浸し復讐を誓うのである。
坂崎は、幕末の土佐における上士と下士の対立を明治10年代における薩長藩閥と民権論者の対立に置き換え、龍馬に縦横無尽の活躍をさせる。つまり、「汗血千里駒」は民権論者の主張を龍馬に仮託した政治小説なのである。
その後は、板垣退助の遊説に同行したり、民権一座をつくり講演してまわったりと民権運動に挺身するが、その度に不敬罪などで捕まり裁判にかけられた。
保釈中の明治16年、「土陽新聞」小説「汗血千里駒」の連載をはじめた。これが本格的な坂本龍馬の伝記の最初である。龍馬再発掘のきっかけともなった「汗血千里駒」の作者は坂崎斌、号は紫瀾と称した。
その「汗血千里駒」の冒頭には、井口村事件が取り上げられている。井口村事件は文久元年に土佐藩内で起こった刃傷事件で、上士と下士の関係を象徴するものであった。この時の龍馬は下士たちのリーダーであり、自刃した仲間の血潮に自らの刀の白下緒を浸し復讐を誓うのである。
坂崎は、幕末の土佐における上士と下士の対立を明治10年代における薩長藩閥と民権論者の対立に置き換え、龍馬に縦横無尽の活躍をさせる。つまり、「汗血千里駒」は民権論者の主張を龍馬に仮託した政治小説なのである。
2010年06月14日
よみがえった龍馬
飛鳥井雅道によれば、坂本龍馬はよみがえった英雄なのだという。それも時代を経ながら何度もよみがえったのであると。
明治維新の直後、龍馬のことは「一時ほとんど忘れられかけたことすらあった。」大政奉還という歴史の転回点の立役者でありながら、龍馬はそのひと月後に暗殺されてしまう。その後の政局は、龍馬が思い描いたようには進まず、「王政復古」のクーデターにより、主導権を薩摩や長州が握る。その過程で、大政奉還を仕掛けた土佐は脇によけられてしまうのである。
土佐郷士にしかすぎなかった龍馬は、ここで維新の表舞台からは忘れられた存在になってしまう。そんな龍馬を明治の世によみがえらせたのは、土佐で自由民権を闘ったものたちであった。
明治16年、高知の「土陽新聞」に坂崎紫瀾の小説「天下無双人傑・海南第一伝奇・汗血千里駒」が連載された。その後単行本となって多くの読者を獲得するのである。
坂崎紫瀾については、わが信州との関係で以前に書いたことがある。紫瀾の紹介を兼ねて引用してみる。
明治9年、信州松本裁判所に一人の判事が赴任してきた。坂崎斌という。難しい名前だが、さかんと読ませた。それがなぜか翌々年には辞表を叩き付けて辞めてしまう。そのとき判事の辞令で鼻をかんで窓の外に投げ捨てたというエピソードが残っている。
坂崎はもともとが征韓論者で、西南戦争の影響もあって、判事を続けにくくなったのではないかという推測もある。判事をやめた坂崎は松本新聞に編集長として迎えられた。
松本新聞は創刊時は信飛新聞といっていた。松本に県庁があった筑摩県が長野県に編入されたため、名称を松本新聞に改めたものである。坂崎が入社する前から、松本新聞は自由民権運動の主張を強めていた。坂崎が入ることで、その主張は一層強まった。
坂崎は松本新聞紙上で自由民権の論陣を張り、松本周辺で政談演説会を開催した。坂崎の演説のようすについて、中島博昭氏は次のように描写している。「(松沢)求策よりわずか二歳年長でしかない若さにそぐわない型破りのユーモアあふれる、ときにはふざけているとしか思えないような演説をするこの男に、はじめて会った求策は今迄会った人々には感じたことのない異様な魅力を感じた。きれいなあご髭をひねりながら無雑作に面白いことを二つ三つ喋るので腹をかかえて笑うが、話が終ってみると人間の生き方に触れた貴重な教訓が与えられていることに気づく。そしてその奥にこの啓蒙家の民衆に対する暖かい愛情ときびしい姿勢を感じることができた。」(中島博昭「鋤鍬の民権」より)
坂崎斌はここに登場した松沢求策とともに、信州の自由民権運動の先駆的な人物として知られている。それもそのはずで、彼は土佐の出身で板垣退助が興した愛国公党のメンバーであった。
明治11年、坂崎や松沢は浅間温泉に猶興義塾という学校を設立する。民権活動家の養成が目的であった。しかし時代が早すぎたのか、この学校には生徒が集らず、やがて閉校に追い込まれる。
その後坂崎は啓蒙のために松本新聞の日刊化と販路の拡大を図るが、これにも失敗してやがて彼は松本を去る。
明治維新の直後、龍馬のことは「一時ほとんど忘れられかけたことすらあった。」大政奉還という歴史の転回点の立役者でありながら、龍馬はそのひと月後に暗殺されてしまう。その後の政局は、龍馬が思い描いたようには進まず、「王政復古」のクーデターにより、主導権を薩摩や長州が握る。その過程で、大政奉還を仕掛けた土佐は脇によけられてしまうのである。
土佐郷士にしかすぎなかった龍馬は、ここで維新の表舞台からは忘れられた存在になってしまう。そんな龍馬を明治の世によみがえらせたのは、土佐で自由民権を闘ったものたちであった。
明治16年、高知の「土陽新聞」に坂崎紫瀾の小説「天下無双人傑・海南第一伝奇・汗血千里駒」が連載された。その後単行本となって多くの読者を獲得するのである。
坂崎紫瀾については、わが信州との関係で以前に書いたことがある。紫瀾の紹介を兼ねて引用してみる。
明治9年、信州松本裁判所に一人の判事が赴任してきた。坂崎斌という。難しい名前だが、さかんと読ませた。それがなぜか翌々年には辞表を叩き付けて辞めてしまう。そのとき判事の辞令で鼻をかんで窓の外に投げ捨てたというエピソードが残っている。
坂崎はもともとが征韓論者で、西南戦争の影響もあって、判事を続けにくくなったのではないかという推測もある。判事をやめた坂崎は松本新聞に編集長として迎えられた。
松本新聞は創刊時は信飛新聞といっていた。松本に県庁があった筑摩県が長野県に編入されたため、名称を松本新聞に改めたものである。坂崎が入社する前から、松本新聞は自由民権運動の主張を強めていた。坂崎が入ることで、その主張は一層強まった。
坂崎は松本新聞紙上で自由民権の論陣を張り、松本周辺で政談演説会を開催した。坂崎の演説のようすについて、中島博昭氏は次のように描写している。「(松沢)求策よりわずか二歳年長でしかない若さにそぐわない型破りのユーモアあふれる、ときにはふざけているとしか思えないような演説をするこの男に、はじめて会った求策は今迄会った人々には感じたことのない異様な魅力を感じた。きれいなあご髭をひねりながら無雑作に面白いことを二つ三つ喋るので腹をかかえて笑うが、話が終ってみると人間の生き方に触れた貴重な教訓が与えられていることに気づく。そしてその奥にこの啓蒙家の民衆に対する暖かい愛情ときびしい姿勢を感じることができた。」(中島博昭「鋤鍬の民権」より)
坂崎斌はここに登場した松沢求策とともに、信州の自由民権運動の先駆的な人物として知られている。それもそのはずで、彼は土佐の出身で板垣退助が興した愛国公党のメンバーであった。
明治11年、坂崎や松沢は浅間温泉に猶興義塾という学校を設立する。民権活動家の養成が目的であった。しかし時代が早すぎたのか、この学校には生徒が集らず、やがて閉校に追い込まれる。
その後坂崎は啓蒙のために松本新聞の日刊化と販路の拡大を図るが、これにも失敗してやがて彼は松本を去る。